融解
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登場人物
・女:冬の海で自ら命を絶とうとしていた女。20代前半。
・男:死ぬために冬の海を訪れた男。質のいいスーツとコートに身を包んでいる。30代。
『融解』
作者:なずな
URL:https://nazuna-piyopiyo.amebaownd.com/pages/6231351/page_202207012313
女:
男:
本文
(夜明け前、冬の海を見つめる女)
女:「・・・。」
男:「何だ、先客がいるのか。」
女:「あ・・・」
男:「夜明け前に女が一人海を見つめて突っ立てるとは面白い画だな。
そもそもここは立ち入り禁止のはずなんだが・・・、こんなとこで何をしているんだ?」
女:「・・・死にに来たんです。」
男:「そうか。」
女:「驚かないんですね。」
男:「どうでもいいことだからな。」
女:「貴方は・・・?」
男:「死にに来たんだ。」
女:「え・・・?」
男:「何を驚いているんだ?お前もそうなんだろ。」
女:「そうですけど・・・。」
男:「・・・。」
女:「・・・あ、あの」
男:「なんだ?」
女:「寒いですね・・・。」
男:「真冬だからな。
・・・なぜ、海で死のうと思った?溺死よりももっといい方法があるだろ。」
女:「・・・冬の海を見ていると何だか寂しくなりませんか?」
男:「寂しくなるとお前は死にたくなるのか?」
女:「・・・そうなのかもしれません。もしかしたら。」
男:「今までよく生きてきたな。」
女:「運が良かったんでしょうね。でも、もうその運も尽きてしまったみたいで。」
男:「・・・無駄話は止めて、死んだらどうだ?後ろがつっかえてんだよ。」
女:「ご、ごめんなさい。
久しぶりに人と話せたことが嬉しくて・・・。
だから余計に口が回ってしまうんでしょうね。人見知りだし、そんなにお喋りな方ではないはずなんですけど、でも」
男:「(上に被せて)なぜ死なない?
見られているのが嫌なのか。」
女:「それは・・・。」
男:「・・・なんだ?死ぬならはやくしてくれ。」
女:「・・・っ。」
男:「俺は誰かに報せることも助けることもしないから安心して海に沈めばいい。」
女:「・・・。」
男:「・・・そう言われても、お前は死ねないだろうな。」
女:「え・・・?」
男:「足を止めて考えるぐらいならやめておけ。」
女:「でも、私は・・・」
男:「一つ、賭けをしないか?」
女:「賭け・・・?」
男:「“どちらが春まで生きていられるか。”」
女:「・・・そんなことして何の意味があるんですか?」
男:「意味はない。ただ、良い冥土の土産話になると思っただけだ。
死ぬ気のない女が本当に死ぬのかどうか。」
女:「・・・死にたいのは本当です。」
男:「じゃあ、とっとと死ねばいいだろ。」
女:「・・・。」
男:「賭けにのらず、どうしても死にたいって言うのなら手伝ってやる。」
女:「手伝うって・・」
男:「賭けにのるか、それとも今ここで死ぬのか・・・。
どちらか選べ。」
女:「・・・っ」
男:「どちらも選べないのであれば、俺が手伝ってやる。」
女:「なにを・・・」
男:「ここを死に場所に選んだのは正解だ。誰にも見つからないだろうからな。
だが同時に何をしてもバレることはないってことだ。」
女:「私を殺すんですか・・・?」
男:「そもそも死ぬつもりでここに来たのであれば、何の問題もないだろう。」
女:「・・・。」
男:「さあ、どうする。俺は何だって構わない。」
女:「・・・賭けにのります。
死ぬときまで、誰かの手を借りたくないので・・・。」
男:「そうか。それは結構なことだな。」
女:「・・・。」
男:「で、お前はどっちに賭ける。俺とお前、どっちが春まで生きていられるのか。」
女:「・・・もちろん、貴方です。」
男:「俺はお前に賭けよう。」
女:「・・・。」
男:「・・・ああ、もう夜明けか。」
女:「え、あ、あの・・・、どちらへ?」
男:「もう帰る。死ぬ予定もなくなったからな。」
女:「あの、」
男:「・・・・・・。」
(遠ざかる男の背中を見送る。)
女:「・・・行っちゃった。
・・・何を賭けるのか聞けばよかったな。」
女M:「空がうっすらと明るくなる。
質の良さそうなスーツとコートに身を包んだ男の姿はもう見えなかった。
“どちらが春まで生きていられるか”
不可思議な問いを口の中で転がす。
寒い寒い冬の海。
凍ったようなの心に罅(ひび)が入ったような気がした。
春はまだまだずっとずっと先だ。」
===========
(翌日の夜明け前)
男:「・・・。」
女:「あ、居た・・・。よかった。
あ、あの、こんばんは・・・?」
男:「・・・。」
女:「おはようございますの方が良いんですかね・・・?」
男:「お前、馬鹿だな。」
女:「え、」
男:「(ため息をつく)」
女:「で、でも・・・会えて良かったです。聞きたいことがあったので。」
男:「・・・なんだ?」
女:「なにを賭けるのかなって・・・。」
男:「あ?」
女:「あ、あの、私そんなにお金もっていなくて。それで、」
男:「別になんでもいい。」
女:「え?」
男:「別にお前から何か巻き上げようとは思っていないからな。
巻き上げようにもなにも持っていないだろ。」
女:「そうですね・・・。」
男:「・・・お前、頭がおかしいな。
普通、自分を殺そうとしたやつにわざわざ会おうとは思わないだろ。
そうでなくとも、素性も知らない昨日会ったばかりの男に会いに来るのは阿呆だ。」
女:「でも、賭けにのるって言ってしまいましたし・・・。」
男:「・・・生きづらそうな女だ。」
女:「上手に生きることができればいいんですけどね。なかなか難しくて・・・。」
男:「・・・。」
女:「・・・。」
男:「・・・。」
女:「きょ、今日も寒いですね。」
男:「真冬だからな。」
女:「そうですよね・・・。
えっと・・・、その・・・」
男:「・・・別にお前の話を聞くためにここに来ているわけじゃない。」
女:「・・・。」
男:「無理して話すこともないだろ。俺とお前は偶然、ここに居合わせただけだ。」
女:「・・・そうですね。」(少し笑みを浮かべながら)
男:「・・・何笑ってんだ?」
女:「どうしてだろ・・・。なんかほっとしちゃって・・・。」
男:「・・・。」
女:「・・・息が白いですね。」
男:「・・・ああ。」
女:「私、こうやって息が白くなるのが好きで、寒くなってきたら毎日確認するんです。息が白くなってないかなって。」
男:「・・・。」
女:「息が白くなると冬が来たんだなって、冬の始まりを知れて少しだけ嬉しいんです。
あ・・・、そういえば春の始まりってどこなんでしょうか?」
男:「・・・どこだろうな。」
女:「難しいですね。」
男:「春だと思ったら春だろう。」
女:「春だと思ったらですか。」
男:「まだ、大分先だろうがな。」
女:「・・・もしも、今が春なら海で死のうとは思わなかったんですかね。」
男:「春の海は寂しくないのか。」
女:「はい。何となく、ですが・・・。
冬は・・・、冬の海はなんだか全部引きずり込んで沈めてくれそうで・・・。
この世からいなくなったことを誰にも知られることもなく、誰からも咎められることもなく遠くに行けそうだから。」
男:「ならこの場所を選んだのは益々都合がいい。
浮かんでも、勝手に片づけてくれるだろうからな。誰にも知られることはない。」
女:「え?」
男:「聞き流しておけ。詳しく聞いてもいいことなんて何もないぞ。」
女:「はい・・・。」
男:「今は冬のど真ん中だ。死ぬ気がないならわざわざここに足を運ぶ必要はない。」
女:「・・・。」
男:「・・・まだまだ春は先だからな。」
女M:「白い吐息の向こうで男の背中を見送る。
波の音だけがその場に響いた。
男にはああ言われたが、私は次の日も、その次の日も、夜明け前に海を訪れた。
肌を刺すような冷たい空気の中、男はいつもそこにいて、にこりともせず立っている。
そして、私はその男と腕一本分の距離を空けたところで海を見る。
なぜそんなことをしているのかと聞かれたら良く分からないとしか言いようがない。
ただ、少し落ち着くのだ。
少しだけ、この場所が。
冬の海は静かにそこで揺らめいていた。
春はまだまだずっと先だ。」
===========
(あの日から十日後の夜明け前)
男:「・・・よく飽きないな。」
女:「え?」
男:「真冬の夜明け前によくも毎日ここに来れるな。」
女:「・・・とても寒いし、手もかじかんで痛いけど今じゃここに来ないと落ち着かなくなってしまいました。」
男:「・・・。」
女:「貴方はどうしてここにいるんですか・・・?」
男:「・・・お前がここに来る前から、俺はここに来ていた。言ってしまえば気に入ってるんだよ。この場所が。」
女:「・・・すいません。そうとは知らずに」
男:「別に構わない。偶然、居合わせただけだろ。立ち入り禁止だということには目を瞑ろう。
・・・ここは静かだからな。波も穏やかで、町の喧騒も届かない。」
女:「・・・そうですね。なんだか町からずっとずっと離れた場所にあるみたい。」
男:「・・・。」
女:「・・・今年の冬はいつもより寒いらしいですよ。
二月には雪が降るかもしれないってテレビで言っていました。」
男:「・・・そうか。だとしたら面倒だな。」
女:「雪は嫌いですか?」
男:「好きでも嫌いでもない。ただ、面倒なだけだ。」
女:「そうですね・・・。学校や職場に行くにも、交通機関は影響を受けてしまうから大変ですよね。」
男:「・・・ああ。」
女:「でも、私は雪が好きです。いつも見ているはずの景色が知らない、どこか遠いところの景色に見えて、それが面白くて好きなんです。」
男:「・・・。」
女:「やっぱり大変ですけどね。職場に遅れることとか考えると胃が痛くなっちゃって・・・。
・・・子供の時は雪が降るとただただ嬉しかったな。」
男:「じゃあ、今年はただただ嬉しいって思えばいいんじゃないのか。」
女:「え?」
男:「死ぬつもりなんだろ?」
女:「・・・でも、働かないといけませんから。」
男:「・・・。」
女:「貴方は何のお仕事をされているんですか?」
男:「聞いても良いことなんてないぞ。」
女:「・・・。」
男:「お前は偶然居合わせた奴全員にそうやって聞いて回っているのか?」
女:「そ、そんなことしてないです。でも・・・」
男:「なんだ?」
女:「・・・ごめんなさい。」
男:「・・・。」
女:「で、でも、働くのって大変ですよね。
ほら、世の中には働かないどうしようもない人もいるじゃないですか。何もないのに。
本当にどうしようもないですよね。どこも悪くないのに働かないって。」
男:「・・・俺としてはどうでもいいことだな。そんなもの。」
女:「え?」
男:「・・・別に働いていれば良いってわけでもないだろ。
現に俺も働いてはいるが、やっていることは良いこととは言えない。」
女:「・・・。」
男:「それに、お前死ぬつもりんなんだろ?」
女:「そうですけど・・・。」
男:「なら、そんなもの忘れて余生を過ごしたほうがずっと良い。」
女:「・・・雪を楽しんでも?」
男:「雪遊びでもする気か?」
女:「それもいいですね。」
男:「ガキだな。」
女:「ふふっ、子どものときを思い出すなぁ。」
男:「・・・。」
女:「私、かまくら作ってみたくて。」
男:「降ったとしてもそんなに積もらないだろ。」
女:「分かりませんよ。もしかしたら、すごい積もるかもしれません。
・・・いいですね。楽しみなことがあるのは。」
男:「・・・そうか。」
女:「あ・・・、でも積もったらここまで来られるのかな。歩けるぐらいならいいんですけど・・・。」
男:「大人しく家の中にいればいいだろ。」
女:「貴方は雪が積もってもここに来るんですか?」
男:「どうだろうな。その日の気分による。
・・・前にも言ったが、ここに毎日くる必要はないぞ。」
女:「でも、分からないじゃないですか。」
男:「なにがだ?」
女:「もしも、貴方が死んでしまったらどうやって確認するんですか?」
男:「・・・さあな。」
女:「分からないと困りますよ。賭け事なのに・・・。」
男:「意味もなにもない賭けだがな。
だが、案外分かるもんだ。死に目や死体を見なくても勘づくんだよ。人の死っていうのは。」
女:「そういうものなのでしょうか・・・。」
男:「お前は鈍感そうだから確証はないがな。
だが、ここに長い間姿を見せないようなら死んだと、そう思っておけ。」
女:「あれ・・・?
でも、貴方が春になる前に死んでしまったら、この賭けは私の負けになるわけですよね?」
男:「ああ。」
女:「なにを賭けるかは決めてないけど、死んじゃったらなにも渡せませんよ・・・?」
男:「今更だな。」
女:「え?」
男:「だから言っただろ。巻き上げるつもりはないと。
死ぬ気のない女が本当に死ぬのかどうか・・・。興味本位の賭けだからな。何の意味もない、最初から破綻している賭けだ。
・・・やめるか?」
女:「賭けにのらなきゃ殺すって言ってましたよね?」
男:「そんな物騒な言い方はしていない。」
女:「・・・やめませんよ。死ぬときはちゃんと自分で死にますから。
ここにもちゃんと来ます。冬の海は寂しいけど、見るのは好きなのでいい気分転換になりそうです・・・。」
男:「呆れるな。」
女:「・・・そろそろ夜明けですね。」
男:「ああ・・・、帰るか。」
女:「あ、はい・・・。お気をつけて。」
男:「・・・。」
女:「あ、あの・・・っ」
男:「・・・なんだ?」
女:「その・・・。
・・・いえ。なんでもありません。呼び止めてすいませんでした。」
男:「・・・ああ。」
女M:「“また、明日。”
不意にそう言いたくなった。
波の音に交じって、遠ざかるあの人の足音を呼び止めたくなったのだ。
死のうと思ってここまで来たあの日と同じ冬の海が広がる。
でも、あの日の海よりも寂しく見えなかった。
冷たい冷たい空気の中。
ずっと凍っていた心が少しだけ溶けたような気がして。
また明日ってそんな約束じみた言葉をいつか投げかけたいと思った。
春はまだずっと先だ。」
===========
(出会いから一か月後)
女:「おはようございます・・・。あ・・・っ」
(電話している男を見て、声をかけるのを止める。)
男:「お言葉ですが、こちらには何の責任もないはずです。
勝手な行動は慎むようあれほど助言したのにも関わらず行ったんですから。
ええ、はい。
ですからそう言っているんです。
私はもうその件には関わるつもりはありません。あの会社に関しても権利は全て放棄するつもりですよ。
・・・あ?
何度言ったら分かるんだ。もう義理は通してんだよ。
なにがそんなに不満なんだ?!ああ?!
これ以上その話を続けるのなら、こっちだって手段は選ばねえぞ。
・・・ああ、それでいい。もうかけてくるなよ。」
(電話を切る男)
男:「物分かりの悪い奴だな。
・・・おい、いるんだろ。」
女:「・・・っ!」
男:「すまない。仕事の電話だ。」
女:「い、いえ・・・、お疲れ様です。」
男:「・・・ああ。」
女:「・・・。」
男:「・・・怖くなったか?」
女:「え?ああ・・・、どちらかというとびっくりしました。大きい声だったから。」
男:「・・・そうか。」
女:「あ、あの、ひ、久しぶりですね。雨が降るの。」
男:「ああ。そういえばそうだな。」
女:「・・・どうせ降るんだったら雪になればいいのに・・・。」
男:「元をただせば雪だ。この雨だって。」
女:「溶けて雨になるんでしたっけ。
・・・雪が雨みたいに、姿が変わるのって少し羨ましいですよね。人もそうやって温度で変わればいいのに。」
男:「何に変わりたいんだ?」
女:「・・・私以外の何かかな。
貴方は?」
男:「・・・さあな。思い浮かばない。
そもそも姿や名前が変わったところで、中身が変わってないなら意味がないだろうな。結局はこうなるはずだ。」
女:「・・・そうですね。
あっ・・・!」
男:「どうした?」
女:「あ、あの」
男:「・・・。」
女:「・・・えっと・・・、あんまんと肉まんならどっちが好きですか?」
男:「・・・どちらにも興味がないな」
女:「そう、ですか・・・。」
男:「それがなんだ?」
女:「えっと・・・、その、これ良かったらどうぞ・・・。」
男:「・・・なんだ?」
女:「コンビニで買った肉まんです。今日、雨で寒かったから・・・。」
男:「・・・。」
女:「あ、あの、きっといつも良いものを口にされてると思いますし、コンビニのものなんて普段口にしないでしょうから、お気に召すかどうかは分からないのですが・・・っ!」
男:「・・・。」
女:「迷惑だったでしょうか・・・?」
男:「・・・そうだな。」
女:「・・・っ。」
男:「金を払ったわけでもないのに、なにかを得てしまうと落ち着かない。」
女:「・・・。」
男:「お前は人から何かを貰った時どうする?」
女:「・・・お礼をいって、あとで何かお返しをします。」
男:「そういったことが面倒だから、何かを貰うのは基本断っているんだ。
特に、素性もよく分からないやつからのものはな。碌なことにならない。」
女:「・・・そう、ですよね。ごめんなさい。知らなくて・・・。」
男:「教えてもないんだから知る由もないだろ。
・・・約束じみたことが嫌いなんだよ。俺は。
そういう仕事も金も絡まないような真っ白な約束ごとはな。
縛り付けられているような感覚になる。」
女:「・・・。」
男:「・・・何かに執着することに疲れるようになったんだ。人にも金にも地位にもなにもかも。
だから、約束をしてまで縛り付けたいものもなくなった。
似た理由で嘘も吐かなくなったな。」
女:「嘘ですか?」
男:「嘘を吐いてまでどうにかしたいと思うことがないから、そもそも嘘を吐かなくなったんだろうが・・・。」
女:「私なんて嘘ついてばっかですよ。
自分のことを守るためのどうでもいい嘘ですけど・・・。」
男:「守ろうとしていたのに死のうとしているのか?」
女:「そうですね・・・。防衛本能みたいなもので咄嗟に出てしまうんです。」
男:「・・・俺には分からないものだな。
・・・嘘を吐くほど守りたいものもない。約束をしてまで繋がりをもちたいものもいない。」
女:「もう約束をすることも、嘘を吐くこともないんですか?」
男:「余程のことがなければそうだろう。そんなもの、もう持ちたくもないがな。」
女:「・・・そうですか。」
男:「・・・。」
女:「あ、あの、私帰りますね。」
男:「・・・そうか。」
女:「これ・・・っどうぞ・・・!
あ、あの、お返しは全然いらないですから、気にしないでください。
あの、私が買いたくて買っただけなので。たまたま、食べたくなって・・・。それで、二個食べようと思ってて、そしたら」
男:「知らない男がたまたま居合わせたから渡したと。
・・・無理があるな。」
女:「でも・・・」
男:「押し付けたところで俺は食わずに捨てるだけだ。
お前が食った方が良い。」
女:「・・・分かりました。
それじゃあ、失礼します・・・。」
女M:「凍て刺す空気のなか、駆け足でその場を後にする。
“また、明日。”
言えずにいたその “約束じみた” 言葉を静かに奥底にしまう。
嘘を吐いてまで引き留めたくて、約束してまで繋がりを持ちたいと思えた人が、あの人にはいたのだろうか。
きっと深く関わらない方が良いと分かっているのに、なぜか胸がぎゅっとする。
かじかんだ指先が痛い。
氷が融解して水になる。
人の心もそうなればいいのに。
雪だったものがぱらぱらと傘を打つ。
春はずっと先だ。」
===========
女:「おはようございます・・・。」
男:「・・・ああ。
・・・いつにも増して酷い顔をしているな。」
女:「少し忙しくて・・・、色々あって仕事を探しているんです。」
男:「お前、働いてないのか?」
女:「働いていますよ・・・!」
男:「・・・。」
女:「あ・・・、大きな声出してごめんなさい。でも、働いています。ちゃんと・・・。」
男:「・・・死ぬのに職探しとはおかしな話だな。」
女:「あまりお給料が良い仕事ではなくて・・・。それにここまで生きているとも思わなかったから。」
男:「・・・そうか。」
女:「もう二月なんですね。」
男:「ああ。」
女:「・・・。」
男:「・・・。」
女:「冬は空がきれいにみえますね。」
男:「・・・それと、音が澄んで聞こえる。」
女:「だから、綺麗な季節だなって思うんです。冬って。」
男:「綺麗か。」
女:「はい。寒いし、痛い季節だとも思うけど。」
男:「海は違うのか?」
女:「え?」
男:「言っていただろ。“冬の海を見ていると寂しくなる”って。」
女:「ああ・・・。綺麗だけど、冬は寂しい季節だとも思うから。
日が出ている時間が短いからかな・・・。
春も夏も秋も綺麗だとは思うんです。でも、海だけは冬が綺麗だなって。」
男:「・・・そうかもな。」
女:「綺麗だから寂しくて、だから・・・、全部引きずり込んでくれそうだと勝手にそう思っているんです。」
男:「・・・冬の海に沈みたくなる気持ちは少しだけ分かる。」
女:「本当ですか・・・?」
男:「だから、ここで死のうとしたんだろ。結局死ねずにまだ生きているが。」
女:「私もですね。
・・・ふふっ。」
男:「・・・なんだ?」
女:「変わっている人だなって思って。」
男:「お前にだけは言われたくないな。」
女M:「そのまま、口を開くことなくただ静かに二人で寂しい海を見る。
なぜかここにいると全部全部許されるような気がするのだ。
氷が溶けるような、固い結び目が解けるような。そんな不思議な感覚。
まだここで冬の海を見ていたい。
腕一本分の距離を空けて、貴方の隣で。
寂しくて綺麗なそんな海を。
だから、あと少しだけ。少しだけ頑張ってみよう。
逃げたいけど、ここにはまだいたいから。
まだ、冬なのだから。
春はまだ先だ。」
===========
女:「・・・。」
男:「・・・おい。」
女:「・・・。」
男:「おい、聞いてるのか?」
女:「え、あ・・・、ごめんなさい。少しぼおっとしていて・・・。最近、あまり眠れなかったからですかね。」
男:「・・・そうか。」
女:「・・・貴方は何で死のうと思ったんですか?」
男:「唐突だな。」
女:「何となく知りたくなって。」
男:「・・・少しばかり疲れた。ただそれだけだ。」
女:「私は・・・少しだけ、少しだけ逃げたくなったんです。今、自分がいる世界から。」
男:「・・・逃げるのと死ぬのとじゃ大きな違いだ。
だから、俺はお前がここで死のうとしているように見えなかったんだろう。」
女:「・・・死にたいというよりも、逃げたいって気持ちが強かったから。」
男:「逃げてどうするんだ?」
女:「逃げて・・・、遠い場所でもう一度ちゃんと上手に生きてみたいです。
でも、私は私ですからね。どこに行っても、悲しいぐらいに上手に生きられないんだろうな・・・。」
男:「・・・似たような話を前にもしたな。」
女:「それでも逃げたかったんです。でも・・・逃げるためにはいろんなものが必要になります。それを確保するための行
動が起こせなかったんです。
死ぬのが一番、はやく遠くに逃げられるかなって。
・・・生まれ変わったら上手に生きられると思いますか?」
男:「生まれ変わりなんてものないだろ。」
女:「そう、ですかね。」
男:「そうでなければ、死ぬ意味がないからな。」
女:「・・・。」
男:「・・・。」
女:「で、でも、もし生まれ変わりがあったとしたら、海で死んだら魚になったりするんですかね?」
男:「突拍子もないな。だからそんなもの」
女:「も、もしもの話です。死なないと分からないけど、もしそうだったとしたら魚になったりするのかなって。」
男:「馬鹿らしい話だ。」
女:「そ、そうですね・・・ごめんなさい。」
男:「・・・。」
女:「ここのところ色々あったせいで気落ちしてまして・・・変なこと言ってすみません。」
男:「別に、どうでもいいことだ。」
女:「・・・今日は月が綺麗にでていますね。」
男:「午後から雨が降るらしい。雪じゃなくて残念だったな。」
女:「そうなんですか・・・。雪が降ってくれたら嬉しいんですけどね。誕生日プレゼントとして。」
男:「あ?」
女:「私、今日誕生日なんです。」
男:「・・・。」
女:「どうでもいいことなんですけどね。」
男:「(舌打ち)」
女:「え?」
男:「・・・ついて来い。」
女:「あ、あの、どこに」
男:「すぐそこの自販機だ。」
女:「え?」
男:「もたもたするな。」
女:「・・・はい。」
(近くの自販機まで歩く男と女)
男:「・・・ほら、選べ。」
女:「あ、あの」
男:「この辺りにはコンビニも何もない。文句があるなら」
女:「いえ、文句なんてありません・・・!でも・・・」
男:「気が向いたからこうしているだけだ。」
女:「ごめんなさい・・・、少し驚いてしまっただけなんです。」
男:「・・・確かに俺には向いていないな。こういったことは。」
女:「・・・。」
男:「・・・どうするんだ?」
女:「じゃ、じゃあ、そのあったかいミルクティーで。」
男:「これか?」
女:「はい。」
男:「・・・ほら。」
女:「・・・ありがとうございます。
・・・あったかい。」
(続けて缶コーヒーを買う男)
男:「・・・。」
女:「・・・誕生日って昔は楽しみにしていたんです。家族や友達からおめでとうって言ってもらえて、お祝いしてもらえて、楽しくて。
懐かしいなあ・・・。」
男:「今とはえらい違いだな。」
女:「そうですね。
・・・今は誰かに祝ってもらえるような人間ではなくなってしまったので。」
男:「・・・。」
女:「・・・。」
男:「・・・魚。」
女:「え?」
男:「さっきの話の続きだ。魚にも色々あるだろ。なにになりたいんだ?」
女:「ふふっ、そうですね・・・。
美味しいやつ。まぐろとかがいいです。」
男:「高望みだな。」
女:「望みぐらいは高く持ちたいですから。」
男:「そうか。」
女:「家族や友達に囲まれてお祝いされるのも楽しかったけれど、こんな誕生日もいいですね。」
男:「プレゼントがそんなものでもか。」
女:「・・・夜明け前の海で、よく知らない人からミルクティーを奢ってもらえる誕生日なんて普通に生きていたらなかっただろうから。
・・・ああ、もう少しだけ生きていたいな。春まであと少し。」
女M:「その人は何も言わずに、相変わらず腕一本分の距離を空けて、海を見ている。
よく分からない感情がこみ上げて、やたら月が綺麗に見えるのに視界が滲む。
ミルクティーの缶を大切に大切に包み込むと凍えた指先が溶けていった。このまま全て溶けてしまえばいいのに。
午後、雪にはなれなかった雨の音を聞きながら寒い暗い部屋で丸まる。
書きかけの履歴書がくしゃりと音を立てた。
上手に息ができない。
まるで、冬の海の中に沈んでいくようだ。
あの海が凍ってどこまでも歩けるようになって、そして春が来て氷が解けて海になって落ちて魚になることができたら。
ああ、どうしようもなくあの海に沈みたくなった。
何かが自分の中でぷつりと切れる。
やっぱり私はどうしようもない人間だったのだと。
春まであと少しだったのに。」
===========
(一人で海を見ている女)
女:「・・・・・・。」
(そこに男が後から来る)
男:「・・・俺よりも先に来ているとはな。」
女:「・・・。」
男:「そんなところに突っ立ってどうした?
まるで、これから死のうとしているみたいだ。」
女:「・・・冬の海はどうして凍らないんですかね。全部凍ってくれたらいいのに。」
男:「・・・。」
女:「溶けた先で死ぬことができたらいいのに。そうしたら、どうしようもないから諦められるのに。だって、海なんだから。」
男:「その言い方だと死にたくて死ぬわけじゃないって聞こえるな。」
女:「逃げるために死ぬんです。」
男:「で、今から死ぬのか?」
女:「・・・。」
男:「なら、あの賭けは俺の負けになるわけだ。」
女:「・・・私、貴方にずっと嘘をついていました。自分を守るために嘘をついていました。
・・・私、働いてなんていないんです。本当は。」
男:「・・・。」
女:「怖くなっちゃったんです。周りに迷惑ばかりかけて、何の役にも立てなくて、たくさん怒らせてしまって・・・。どうしたらいいのか分からなくなっちゃって・・・。
どうしようもないですよね。病気も何もないのに働かないなんて・・・。本当にどうしようもなくて。」
男:「・・・。」
女:「ずっと、ずっと自分だけ周りの子みたいに上手に立ち振る舞うことができなくて、特技も長所も何もなくて、何の役にも立たない人間なんです。
職場でも怒鳴られて、役にも立たないと怒られて、いくら頑張っても頑張っても駄目で・・・。
・・・人と話すことが怖くて怖くて仕方がなくなって、仕事を辞めたんです。
もう全部嫌になって、全部置いて逃げたくなって・・・。
だから、一人で全部抱えて海に逃げたくなったんです。」
男:「・・・上手に生きる、か。お前の言うそれはどういう生き方のことを言うんだ?」
女:「・・・みんなから幻滅されず、親にも自慢の娘だと思ってもらえるように、誰にも迷惑をかけず、人の役に立つ仕事をして・・・。」
男:「どれも俺には当て嵌まらないことだな。」
女:「・・・貴方はいいんです。私じゃないんだから。私みたいに駄目じゃないんだから。」
男:「逃げたいから、死ぬと言ったな?」
女:「・・・はい。」
男:「入水(じゅすい)自殺がどんなもんか知っているのか?」
女:「・・・。」
男:「溺死ってのは、泡になって消えるような、そんな綺麗なもんじゃない。
体が無意識に酸素を求めて必死に足掻くことになる。」
女:「やめてください・・・。」
男:「死のうと思っているのに体は生きようとするから、穏やかに沈むことなんてまずできない。
勿論、お前の死体は見れたもんじゃない姿になるだろう。」
女:「どうして」
男:「お前の言う逃げるとはそういうことだ。
・・・それを全て承知の上で」
女:「どうして今になってそんなことを言うんですか・・・!?」
男:「・・・腹が立つんだよ。
そんなことも知らずにつまらない理由で死のうとするお前に。」
女:「つまらないって・・・」
男:「だが、いまお前は死ぬのが怖くなったはずだ。」
女:「・・・っ。
やっと、死のうと思えたのに・・・、」
男:「・・・。」
女:「本当は春まで頑張ろうと思ったんですよ。
だけど、なにもうまくいかなかった。求人に応募するのも怖くて、震えながら応募して、いざ面接になっても上手に話せなくて・・・。また迷惑かけたらどうしようって思ったら呼吸ができなくなって・・!!どうしたらいいんですか・・・!?逃げないで、死なないで、私はどうしたら良かったんですか・・・!?
ここまで育ててくれた両親にもどうしようもない子だって言われて、私だってこうなりたくてなったわけじゃないのに・・・。誰にも迷惑なんてかけたくないのに。
・・・本当に私はだめなんです。どこまで行っても上手に生きられない。
上手に息もできない・・・。分からなくなるんです。呼吸の仕方が。溺れているみたいにできなくて・・・だったらいっそ本当に・・・。」
男:「そんなことでお前は死ぬのか。」
女:「そんなことって・・・」
男:「俺にとってはそんなこととしか言いようがない。」
女:「貴方に何が分かるって言うんですか・・・?
上手に生きたくても生きられなかった人間の何が分かるんですか!?」
男:「分かるはずねえだろ。」
女:「・・・っ」
男:「死にたいんだったら、死ねばいいだろうが。
お前の言う綺麗で寂しい海で、もがき苦しんで死ねばいい。
だがな、お前の言う上手な生き方には、お前自身がどうしたいのかっていうことが含まれてない。
女:「・・・どうしたいのか?」
男:「てめえの人生だろうが。
・・・そんな生き方をしようとしている奴の生き死になんて土産話にもならねぇんだよ。」
女:「もしも、その生き方で人に迷惑をかけてしまっても・・・?」
男:「ああ。」
女:「親をがっかりさせてしまっても・・・?」
男:「・・・ああ。」
女:「貴方はがっかりしましたか・・・?私がこんな人間だって知って。」
男:「がっかりするも何も、お前が働いていないことぐらい察していた。」
女:「・・・。」
男:「だが、何とも思わなかった。言っただろ。
別に働いていれば良いってわけでもない。
そもそも他人が何をしていようがしてなかろうが、俺には関係のないことだ。興味もない。」
女:「・・・私、生きててもいんですかね・・・?」
男:「お前自身の話だろ。
迷うなら考えるんだな。そのうえでやっぱり死にたいのならそうすればいい。
・・・春はまだ来ていないのだから。」
女:「・・・。」
男:「・・・それに、この辺りの海に魚はいない。」
女:「え?」
男:「まぐろは無理だと思うぞ。」
女:「ふふっ、・・・そうですね。」
男:「・・・。」
女:「・・・引き留めてくれてありがとうございます。」
男:「賭けに負けるのが癪だっただけだ。
・・・。」
女:「・・・ごめんなさい。何だかほっとしたら涙がでてきちゃって・・・。」
男:「・・・。」
女:「そうですよね・・・。春はまだ来てないんですもんね・・・。」
男:「・・・ああ。」
女M:「一瞬、男の手が戸惑いがちに宙に浮いたが何もせずに元の位置に収まる。
どうしようもなくこの人に縋りつきたくなった。
腕一本分の距離が落ち着く距離だと思っていたのに、少しでもこの人の体温を感じたくて。
でも、いまはこの距離で良い。
きっと近づいたらこの人は逃げてしまうだろうから。
海は相変わらず静かにそこにある。
あとどれぐらい、この人の隣で海を見られるのだろうか。
寂しくて、綺麗な冬の海をどのくらい見られるのだろうか。
春はすぐそこだ。」
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女:「あ・・・!おはようございます・・・!!」
男:「ああ・・・。」
女:「あの、実はですね・・・、仕事見つかったんです!」
男:「・・・そうか。良かったな。」
女:「はい!正社員ではないんですけど、それでもすごく嬉しいです。
それでですね、こちら受け取ってください・・・!」
男:「あ?」
女:「缶コーヒーです。以前、飲んでいたものをそこの自販機で買ったんです。
ごめんなさい、こんなもので・・・。でも、受け取ってくださったら嬉しいです。」
男:「俺は」
女:「飲まなくてもいいですから。私が渡したくてそうしているんです。」
男:「・・・随分と強引だな。分かったよ。」
女:「ふふっ、ありがとうございます。
・・・まだ寒いけど、息は白くなくなりましたね。」
男:「ああ。」
女:「もう、春なんでしょうか。」
男:「そうかもな。」
女:「そしたら、もう賭けはお終いですか?」
男:「・・・そうだな。」
女:「・・・結局、二人とも死にませんでしたね。」
男:「これからはどう生きるのか決めたのか?」
女:「はい。
とりあえず、できる限り生きようと思いました。見栄をはらないで、自分が生きやすいように生きようかなって。
・・・本当はもう少しちゃんとしたことを決めたかったんですけど、なかなか難しいですね・・・。」
男:「自分のことなのにか?」
女:「自分のことだから分からないんですよ。
でも、本当に死にたくなる日まで、ちゃんと生きます。」
男:「・・・そうか。」
女:「私、死ななくてよかったって思うんです。
・・・貴方は、今生きててよかったって思いますか?」
男:「どうだろうな。」
女:「分からないんですか?」
男:「自分のことだからな。」
女:「ふふっ。」
男:「・・・。」
女:「・・・冬が終わったんですね。」
男:「ああ。
結局、雪は降らなかったな。」
女:「でも、いいんです。雨も元々は雪だから。」
男:「・・・そうか。」
女:「そろそろ夜明けですよ。」
男:「・・・俺は用があるからここにまだいるが、お前はもう帰った方が良いだろう。」
女:「はい・・・。そうですね。」
男:「・・・。」
女:「あ、あの・・・」
男:「なんだ?」
女:「何の意味もない賭けだったけど、私はあの賭けを貴方が持ちかけてくれたから、生きているんだと思います。
本当に、ありがとうございました。それじゃあ・・・、帰りますね。」
男:「・・・一つだけ、」
女:「え?」
男:「分からないと言ったが、一つだけ、生きててよかったことがある。
・・・良い冥土の土産話ができたことだ。」
女:「・・・そんなことも言ってましたね。面白い話になりました?」
男:「忘れたくないぐらいにはな。」
女:「・・・。」
男:「もうそういったものは増やしたくないと思っていたんだが・・・。良く分からないものだ。」
女:「じゃあ、もっと忘れられないような土産話を持たせてあげます。」
男:「・・・。」
女:「だから、その・・・、約束とかじゃなくて・・・また、ここに海を見に来てもいいですか?」
男:「・・・勝手にすればいい。」
女:「ありがとうございます。
・・・それじゃあ、また来ますね。」
男:「ああ・・・。
“また、明日。”」
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女M:「あの時、男は確かにそう言ったのに、それ以降姿を見せることはなかったのだ。
次の日、夜明けを迎えてもあの人は現れず、ただ海とあの時渡した缶コーヒーと同じ空き缶があるだけだった。
その後も夜明け前の海に何度行っても会うことはなく、あの人は忽然と姿を消した。
“また、明日。”
そんな約束じみた嘘を遺して。
腕一本分の距離にいたあの人はもう海の底にいるのかもしれない。
でも、生きているような気がするのだ。
だって、そう思っていたいから。
いつか会えたら聞きたいことがたくさんある。
あの賭けは私の負けなんですかとか、海にいたのが私じゃなくても貴方は声をかけていたんですかとか。
あと、嘘を吐いてまで引き留めたくて、約束してまで繋がりを持ちたいと思ってくれたんですか、って。
いつもの場所で腕を伸ばす。
春風に触れただけで、そこには誰もいない。
腕一本分の距離で融(と)けて、解(ほど)けた心をどうしようもない切なさが刺してくる。
ああ、もう少しあの人に近寄ればよかったな。
あの人の背中に縋りつきたくなった。
あの人の体温を感じたくなった。
あの人の体温なんて私、知らないのに。」
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