君見ず櫻のいと戀し

*利用前に注意事項・利用規約を確認していただきますようよろしくお願いいたします。

事前報告で教えてほしい内容、配信媒体などにおけるクレジット表記の決まりなどに関して書いてあります。

*この作品固有の注意事項

 ・この作品には以下のパブリックドメインの要素を取り入れている、もしくは参考にしています。

  花(作曲:滝廉太郎 作詞:竹島羽衣,明治33年)*作中では歌っても朗読しても構いません。

  軽便西洋料理法指南 : 実地応用 一名・西洋料理早学び(マダーム・ブラン 述[他],明21.11)

 ・上演される場合、長いお話なので二つに分けていただいても構いません。

登場人物

・美代子(みよこ)(♀)

 10代後半から20代前半。ある事故に巻き込まれ、記憶を失い片足も失くした娘。

・上條誠(かみじょうまこと)(♂)

 20代前半。なぜか美代子を恨んでいる顔が綺麗な男。

『君見ず櫻のいと戀し』

作者:なずな

URL:https://nazuna-piyopiyo.amebaownd.com/pages/6283135/page_202207172239

美代子(♀):

上條(♂):



本文

美代子M:「ある美術館に美しい絵画が展示されている。

桜の中で一人の女が笑みを浮かべている光景が描かれたものだ。

明治時代に描かれたとされるこの作品は誰によって描かれたものなのか、誰を描いたものなのか、全てが謎に包まれたままである。

だが、幸せそうなその笑みをみた者は皆、こう思うのだ。

“この女はこの画家のことを恋い慕っていたのだろう”、と。



=================



(ある屋敷の一室で目を覚ます美代子)


美代子:「ん・・・?ここは・・・?」


上條:「・・・っ!!」


美代子:「私、一体・・・」


上條:「・・・目が覚めたようで何よりです。」


美代子:「あの、どなたですか・・・?」


上條:「は?」


美代子:「貴方は誰ですか・・・?」


上條:「・・・なにを言っているんです?」


美代子:「ごめんなさい。私、なにも覚えていなくて」


上條:「なにを馬鹿げたことを・・・!!」


美代子:「・・・っ!!」


上條:「ふざけるな!!」


美代子:「ご、ごめんなさい・・・!でも、私本当に分からなくて」


上條:「・・・。」


美代子:「・・・。」


上條:「・・・私が誰かも、何があったのかも、本当に覚えていないんですか?」


美代子:「・・・ごめんなさい。」


上條:「貴女の名前は?」


美代子:「名前・・・?」


上條:「・・・その様子だと覚えていないようですね。分かりました。なにも覚えていない貴女と話す時間など無駄でしかありません。ですが説明はするべきでしょうね。」


美代子:「説明・・・?」


上條:「ええ。面倒くさいことこの上ないですが、なにも覚えていないようですから。貴女のような方でも分かるように説明して差し上げましょう。

ですが、もう夜更けです。話の続きは明日にでも。」


美代子:「・・・ごめんなさい。ご迷惑をおかけして。」


上條:「謝るぐらいなら思い出してください。」


美代子:「・・・。」


上條:「(ため息を吐く)

それでは私は失礼します。くれぐれも大人しくしていてください。まあ、その体じゃ歩くにも歩けないでしょうが。」


美代子:「え?」


上條:「足ですよ。貴女、気づいていないんですか?片足がないの。」


美代子:「え・・・?あ、ああ・・・」


上條:「驚きました?でも、死ななかっただけよかったと思うべきです。

それじゃあ。」


美代子:「・・・・・・。」


(部屋から出ていく男)


美代子:「・・・なにがあったの?

私、なにを忘れてしまったの・・・?」



=================



(翌日。あまり眠れないまま朝を迎えた美代子。)


美代子:「・・・もう朝?ずっと考えても何も思い出せなかった。

外はどうなっているのかしら。

・・・あ、あと少しで窓に届きそう。


(ベッドから落ちる)


きゃ・・・!!」


(ドアが開き、上條が姿を現す。)


上條:「(ため息を吐く)

何をしているんですか?」


美代子:「ご、ごめんなさい…。

外の様子が知りたくて」


上條:「それで窓に手を伸ばそうとしてそこから落ちたと?」


美代子:「・・・はい。」


上條:「馬鹿ですね。はやく元の場所に戻ってください。」


美代子:「は、はい。・・・あ」


上條:「どう戻るつもりかは知りませんけどね。」


美代子:「・・・私、足」


上條:「昨夜、そう言ったばかりでしょう。もう忘れたんですか?」


美代子:「本当に、ないんですね。」


上條:「ええ。」


美代子:「・・・・・・。」


上條:「(ため息を吐く)

失礼します。」


美代子:「え、あ、あの・・・!」


上條:「いいからじっとしていてください。動いたら落としますよ。」


美代子:「は、はい・・・。」


上條:「よっと・・・。

私、筋力もないですし、力仕事嫌いなんです。二度とやらせないでください。」


美代子:「・・・すいませんでした。」


上條:「(ため息をつく)

・・・昨日の話の続きですが。」


美代子:「は、はい。」


上條:「私このあと用事があるので今話してもいいですか?面倒ごとを早く片付けてしまいたいんです。」


美代子:「分かりました。お願いします。」


上條:「・・・私は上條誠と申します。」


美代子:「上條、さん。」


上條:「・・・ええ。

そしてここは私の屋敷です。貴女は今から約一年前に事故に遭い、ずっと意識を失っていました。足もその事故で切り落とすほかありませんでした。」


美代子:「・・・。」


上條:「昨夜にも言いましたが、死ななかっただけよかったと思うべきですよ。」


美代子:「・・・どうして、上條さんは私を助けてくださったんですか?」


上條:「助けた?はははっ、勘違いしないでください。私は優しさから助けたかったわけではありません。

私は、貴方のことを憎んでいます。恨んでいるんです。この世の誰よりも。復讐を終える前に貴女に死なれては困るんですよ。だから身寄りのない貴女を助けて、生かした。それだけです。」


美代子:「復讐・・・?」


上條:「はい。復讐です。それなのに目を覚ました貴女は記憶を失っているんですから酷い話ですよね。」


美代子:「・・・。」


上條:「で、これからどうします?」


美代子:「どうしますって言われても・・・」


上條:「ここにいてもらっても構いませんし、出て行っても構いません。そんな姿でどう生きていくのかは知りませんけど。

ここに残るのでしたら外に勝手に出るのは止めてください。面倒ごとしかないでしょうから。もし、外に出て何か起こっても私はなにも手助けしませんので。そのおつもりで。」


美代子:「・・・。」


上條:「さっさと答えてください。」


美代子:「・・・ここに」


上條:「なんですか?」


美代子:「ここに、いさせてください。」


上條:「そうですか。分かりました。」


美代子:「あの、なるべく早くここから出て行けるように頑張りますからそれまでは、体の調子が戻るまでで構いませんので・・・!」


上條:「お好きにどうぞ。」


美代子:「ありがとうございます・・・。」


上條:「ああ、言い忘れてました。貴女は美代子という名前です。」


美代子:「美代子・・・」


上條:「話は以上です。それよりもこれ置いておくので食べてください。それと、昼頃になったら医者を呼びますので。」


美代子:「医者?」


上條:「はい。本当は診せなくてもいいのですが一応。事故にあってからずっと貴女を診てくださっている可哀想な医者です。よくお礼を言っておいた方がいいですよ。」


美代子:「・・・はい。」


上條:「ほら、これここに置いとくのでさっさと食べてくださいね。」


美代子:「これは・・・?」


上條:「粥ですよ。見たらわかるでしょう?

貴女、いちいち確認しないと済まない性格なんですか?」


美代子:「い、いえ。ごめんなさい。ありがとうございます。いただきます。」


上條:「・・・それじゃあ、私はもう行くので。」


美代子:「あ、ありがとうございました。」


上條:「ああ、忘れないでくださいね。私は貴女のことをこの世の誰よりも憎んでいます。心の奥底から。

・・・ね、美代子さん。」


美代子:「・・・っ。」


(部屋を出ていく上條)



=================



(その日の午後)


上條:「(ため息を吐く))


美代子:「ご、ごめんなさい。」


上條:「朝の粥もぼろぼろ落としてましたよね?医者を連れてきた時驚きましたよ。

どうしてそんなに溢すんですか?赤子じゃあるまいし。」


美代子:「手に力が入らなくて匙がちゃんと握れなくて…。ごめんなさい。せっかく作ってくださったのに。」


上條:「・・・。」


美代子:「あ・・・っ」


上條:「ああ、もう・・・っ!貸してください!」


美代子:「え、あ・・・」


上條:「早く口開けてください。」

美代子:「は、はい・・・!」


上條:「苛立たしいんですよ。どうするんですか?こんなに汚して。」


美代子:「・・・ごめんなさい。」


上條:「ほら、開けて。」


美代子:「は、はい。」


上條:「重湯からはじめて、慣れてきたら粥にするようにと医者から言われましたが、こうしてみると本当に赤子みたいで

すね。面倒くさいことこの上ない。」


美代子:「・・・お医者様、何か仰ってましたか?」


上條:「貴女も聞いていたでしょう?」


美代子:「あの後、話し込んでるようだったので・・・。」


上條:「貴女にも話していたことを繰り返し言っていただけですよ。目を覚ましたのは奇跡だと。」


美代子:「記憶もいつか戻るのでしょうか・・・?」


上條:「さぁ。」


美代子:「・・・。」


上條:「ほら、まだ食べられるでしょう?さっさと食べてください。」


美代子:「あ、ありがとうございます。」


上條:「・・・はやく手間がかからなくなってほしいものです。」


美代子:「・・・ごめんなさい。」



=================



(部屋で杖を手に取り、1人歩く練習をする美代子)


美代子:「・・・よしっ。これで・・・っ、あ、あと少し・・・!


きゃっ!」


(倒れる美代子)


美代子:「まだ少ししか歩けないわ・・・。

もう一回・・・。・・・っと。」


上條:「精が出ますね。」


美代子:「・・・っ!」


上條:「そんなに驚かなくてもいいでしょう。」


美代子:「す、すいません。」


上條:「その杖の使い心地はいかがですか?」


美代子:「あ、あの、わざわざ用意してくださってありがとうございます。まだ、上手に使いこなせないのですが。これが

あれば1人でも動けそうです。」


上條:「そうですか。」


美代子:「・・・腕はちゃんと残っててよかった。」


上條:「・・・。」


美代子:「・・・今日も冷え込みますね。もうそろそろ春なのに。」


上條:「そうですね。」


美代子:「・・・あ、あの」


上條:「なんですか?」


美代子:「上條さんはこのお屋敷にお一人で住んでいらっしゃるんですか?」


上條:「私以外の人間をこの家で見かけたことありますか?」


美代子:「い、いえ。

でも広いお屋敷だから一応聞いておこうと思って。」


上條:「この家でお屋敷ですか。私の実家を見たらさぞかし驚くでしょうね。」


美代子:「実家・・・?」


上條:「・・・いえ、なんでもありません。」


美代子:「あの」


上條:「次は何ですか?」


美代子:「その・・・、なにかお手伝いできることありませんか?」


上條:「は?」


美代子:「さすがに何もしないのは心苦しいですし、なにかあればと思ったのですが・・・。

おさんどんぐらいなら、・・・あとお掃除とか」


上條:「一人で歩けるようになってから言ってください。」


美代子:「・・・そうですよね。差し出がましいことを言いました。」


上條:「もう良いですか?私、貴女と長話しをするためにここに来たわけじゃないんです。」


美代子:「え?」


上條:「これから用事があるのでしばらく家を空けますと、それだけ伝えたかったんです。」


美代子:「分かりました。・・・いってらっしゃいませ。」


上條:「・・・。」


(部屋から出ていく上條)


美代子:「はやく上手に歩けるようにならないと・・・。」


=================


(目を覚ましてから数日後)


(廊下)


上條:「(咳き込む)」


美代子:「あ・・・っ、か、上條さん、」


上條:「・・・なんですか?」


美代子:「あの、そこで見ててください。」


上條:「はあ?」


(杖を付きながら上條の元へ歩く美代子)


美代子:「・・・っと。

ふふっ、ここまで動けるようになりました。」


上條:「・・・そうですか。よかったですね。」


美代子:「それで、あの、この前お話したことについてなのですが・・・」


上條:「何のことですか?」


美代子:「なにかお手伝いできることがあれば」


上條:「ないです。」


美代子:「・・・。」


上條:「部屋に籠っていただいた方がよっぽど助かりますので、何も頼みたいことはありません。」


美代子:「で、でも」


上條:「暇なんですか?本やら雑誌やらこの前買い与えましたよね?もう読み終わったんですか?」


美代子:「違います。

・・・さっき咳き込んでいましたし、風邪をひいたのではありませんか?春先で寒いですから。」


上條:「風邪なんてひいていませんよ。」


美代子:「で、でも顔色も優れませんし、」


上條:「しつこいな。・・・分かりました。では部屋には戻ります。ですが貴女も自分の部屋でじっとしていてください。

余計な面倒ごとを増やしてほしくないので。」


美代子:「・・・分かりました。」


上條:「・・・本当に苛立つな。」


(部屋へ戻るため歩き始める上條)


美代子:「・・・でも、息が詰まるわ。何もしないでいるなんて。

せめてどこに何があるのか分かればいいんだけれど・・・。お台所の場所も分からないんだもの。

・・・でも、せっかく動けるようになったんだし、怒られてしまうかもしれないけれどお屋敷の中を少し歩かせてもらいま

しょう。


・・・嫌ね、独り言が多くなってしまって。いつか上條さんも私とお話してくれるかしら。」



=================



(屋敷の中を見て回る美代子)


美代子:「・・・本当に広いお屋敷。まだ階段は怖いわね。

二階で見ていないのは・・・、あら?この部屋は何の部屋かしら。・・・鍵が開いてる。

・・・あ・・・っ」


(日が差し込む部屋の中にはいくつもの絵が飾られていた。部屋の中心には描きかけのキャンバスが置いてある。)


美代子:「綺麗・・・。これ、どれも桜の絵だわ。」


(急いだ様子で上條が入ってくる)


上條:「・・・っ!!」


美代子:「あ・・・っ、ご、ごめんなさい。勝手に入って。」


上條:「・・・なにをしているんですか?」


美代子:「ごめんなさい・・・っ。」


上條:「・・・出て行ってください。」


美代子:「え・・・?」


上條:「貴女が見てもいい絵などここにはありません・・・っ!」


美代子:「あ、あの」


上條:「はやく出て行け!!」


美代子:「・・・っ!」


(部屋を飛び出す美代子)


上條:「(舌打ち)


どうしようもなく腹が立つ・・・。どうにもならないと分かっているのに。」



=================



(数日後の午後。部屋の中で春らしくなってきた窓の外を眺めている美代子。)


美代子:「(読んでも、歌っても構いません)

見ずやあけぼの露(つゆ)浴びて

われにもの言ふ桜木(さくらぎ)を

見ずや夕ぐれ手をのべて

われさしまねく青柳(あおやぎ)を」


上條:「花の二番ですか。」


美代子:「・・・っ!」


上條:「声をかけたのですが返事がありませんでしたので勝手に入りました。」


美代子:「ご、ごめんなさい。気がつかなくて。」


上條:「いえ。」


美代子:「・・・。」


上條:「近頃はずっと部屋にいますね。」


美代子:「え?・・・ああ、はい。確かにご迷惑をおかけすると思いまして。階段も一人で降りるのは難しいですから。」


上條:「・・・そうですか。」


美代子:「・・・あのお庭の木は桜ですか?」


上條:「ええ、そうです。」


美代子:「・・・。」


上條:「・・・なぜ、二番を?」


美代子:「二番の詩が好きなんです。」


上條:「一番ではなく・・・?」


美代子:「はい。・・・どれも素敵だと思いますが。

・・・今日は暖かいから何となく思い出して。自分のことや人のことは忘れているのに、歌や読んだ本のことは覚えている

んです。おかしいですよね。」


上條:「そうですね。」


美代子:「そんなこと覚えていても仕方がないのに・・・。」


上條:「・・・花と言えば、」


美代子:「え?」


上條:「作曲した先生は独逸へ留学するらしいですね。」


美代子:「どいつ?」


上條:「遠い国ですよ。」


美代子:「外国ですか。」


上條:「ええ。」


美代子:「・・・上條さんは、隅田川を見たことありますか?」


上條:「何度か。」


美代子:「隅田川の桜も?」


上條:「もちろん。」


美代子:「綺麗でした?」


上條:「ええ。桜はどこで見ても美しいものですから。でも、もっと綺麗な場所を私は知っています。

・・・ついてきてください。」


美代子:「え?あの」


上條:「おいていきますよ。」


美代子:「は、はい。」



=================



(絵が置いてある部屋に入った二人)


美代子:「あ、あの私」


上條:「別にもういいですよ。気が変わったので。はやく入るなら入ってください。」


美代子:「あ、ありがとうございます・・・!」


上條:「どうしてそんなに喜んでいるのですか。」


美代子:「この絵、とても綺麗だったのでまた見たかったんです。」


上條:「・・・まだ途中ですよ。その絵。」


美代子:「でも、素敵です。」


上條:「・・・。」


美代子:「この絵は上條さんが描かれたのですか?」


上條:「趣味ですが。でも、たまに売りつけたりもします。特に女性はよく買ってくださいますね。

ほら、私。顔が良いですから。」


美代子:「でも、そうじゃなくても買い手がつく絵だと私は思います。」


上條:「・・・春の日のうららにさして行く船は棹(さお)のしづくも花ぞちりける」


美代子:「え?」


上條:「和歌ですよ。先程貴女も歌っていた花の一番の詩の元になったものです。

桜はいつの時代も愛でられていますからね。だから買い手が付きやすい。

・・・ここに描かれている風景は私が知っている一番の桜の名所です。」


美代子:「こさぞかし綺麗な場所なのでしょうね。」


上條:「ええ。とても。ここからそう遠くはない場所にありますよ。」


美代子:「そうなんですか?」


上條:「たどり着くまでの道のりはあまり良いものではありませんが、私の知る限りでは一番美しい景色です。」


美代子:「・・・もうそろそろ咲きますかね。」


上條:「まだ、かかるでしょう。ですがあっという間でしょうね。

・・・もう貴女が目を覚まして二月(ふたつき)経ったのですから。」


美代子:「・・・ごめんなさい。未だに出ていけてなくて。」


上條:「別に構いませんよ。

ですが・・・、そうですね。何もさせないで置いておくのも何だか釈然としませんし、そろそろ動いてもらいましょう

か。」


美代子:「は、はい・・・!私にできることでしたらなんでも。」


上條:「では、部屋も一階に移しましょう。」


美代子:「分かりました。」


上條:「・・・。」


美代子:「・・・。

・・・今日は、暖かいですね。」


上條:「・・・そうか。もう春なのか。はやいな。」



=================



(台所に立つ美代子)


美代子:「今日のお夕飯の献立はこれでいいわ・・・。


(少し咳をする)


・・・やだ。最近、また寒かったからかしら。

ライスチキンを作ってみようと思ったけれど、キャベツ巻にしようかしら。・・・温かいお料理の方がいいわよね。

・・・西洋料理、上條さんも気に入ってくださるといいけれど。」


(鶯の鳴き声が聞こえる。)


あ、鶯(うぐいす)だわ。ふふっ、もう春ね。」


上條:「・・・なにを一人で笑っているのですか?」


美代子:「あ・・・、あの、外に鶯がいて。」


上條:「鶯ですか。どこに見えます?」


美代子:「ほら、窓の向こう、桜の木に止まっている子です。楽しそう。今日はいつもより暖かいから鶯も嬉しいでしょう

ね。」


上條:「(堪え切れず笑いだす。)」


美代子:「上條さん・・・?」


上條:「ふふ・・・っ、あー、本当におかしい。あれは鶯ではありませんよ。メジロです。よく見てください。」


美代子:「え・・・?で、でも、鳴き声がしたんですよ。」


上條:「確かに鳴いていましたが、鶯は警戒心が強くて滅多に姿を現さないんです。」


美代子:「本当だ・・・。メジロでしたね。」


上條:「ですが・・・ふふっ、あんなに嬉しそうにずっと見ているのに間違えるだなんて。貴女は面白い人ですね。」


美代子:「・・・。」


上條:「・・・なんですか?」


美代子:「上條さんも笑うんですね。」


上條:「は?

・・・ああ、そうですね。私も人間ですから。でも、ここまで笑ったのは子供のとき以来かもしれません。」


美代子:「え?」


上條:「それほどまでに、間抜けだったということですよ。」


美代子:「・・・ふふっ。」


上條:「なにを笑っているんです?」


美代子:「上條さんが笑うのを見れたことが、私が上條さんを笑わせたことが嬉しいんです。」


上條:「・・・なんですか、それ。馬鹿にされているのによくそう言えますね。」


美代子:「あ・・・、もう一羽増えましたよ。」


上條:「・・・番ですかね。」


美代子:「ふふっ、仲が良いのね。」


上條:「・・・鳥を眺めるのがそんなに楽しいのでしたら外に出て見てきたらどうです?」


美代子:「でも、」


上條:「いいですよ。外に出ないようにと確かに言いましたが、よくよく考えてみれば貴女が外で面倒ごとに巻き込まれよ

うが、そのせいで家に帰って来なかろうが私にとってはどうでもいいことですから。」


美代子:「・・・。」


上條:「まあそもそもメジロがいるのは庭ですから何も起きようがありません。見たいなら見てきたらどうですか?どこか

に行ってしまいますよ。」


美代子:「・・・あ、あの」


上條;「なんですか?」


美代子:「上條さんもご一緒にどうですか・・・?」


上條:「私は遠慮しておきます。特に興味もありませんので。」


美代子:「・・・そうですよね。ごめんなさい。一人ではしゃいでしまって。」


上條:「(ため息をつく)

私、すぐに出かけないといけないんです。」


美代子:「お勤めですか?」


上條:「いえ、医者に呼ばれているんですよ。少し話があると。」


美代子:「お医者様に・・・?」


上條:「ええ。貴女のことについてかもしれませんね。もしなにかあれば帰ってから話します。」


美代子:「・・・分かりました。」


上條:「外に出たいのならお好きにどうぞ。

・・・では。」


美代子:「今日の・・・っ」


上條:「はい?」


美代子:「今日のお夕飯はキャベツ巻です。」


上條:「キャベツ巻、ですか?」


美代子:「西洋のお料理で、ゆでたキャベツでひき肉を巻いて煮るお料理らしくて。」


上條:「・・・分かりました。楽しみにしています。」


美代子:「はい・・・っ!行ってらっしゃいませ。」


(上條の背を見送る美代子)


美代子:「・・・お掃除でもしましょう。

・・・変なの。あまりお話しないのにあの人がいなくなると少しだけ寂しいだなんて。」



=================



(座り込んで掃除をする美代子)


美代子:「(咳き込む)

埃っぽいわね。・・・物置だけど掃除はするべきだわ。

あら・・・?なにこれ・・・?なにか隙間に挟まって・・・っ。

あ、取れた。

・・・新聞と雑誌の記事かしら?どうしてこんなところに?


“一昨(いっさく)十五日、大通りにて馬車が暴走したり。暴走する馬車に巻き込まれ、青山家の御令嬢が死亡した。また、

令嬢を突き出したとされる娘も死亡が確認された。”


なに・・・?これ・・・?こっちの記事は?


“十五日の大通りの事故で青山家のご令嬢が亡くなられた。大変悲惨な事故である。ご令嬢を突き出したとされる娘は貧しい

身寄りのない美代子という娘だと言うことが分かった。


妬みからこのような行動を取ってしまったのだろうか。青山家の当主、そして婚約者である上條家のご子息の悲しみは計り

知れない。”


・・・婚約者?

私、上條さんの許嫁を、殺してしまったの・・・?

そ、そんなの嘘に決まっているわ。私がそんな・・・っ。人を殺すだなんて。

・・・どうしてそんなことを忘れてしまったの?

最低だわ。


・・・私、どうしたらここにいられるのかしら。」



=================



(帰ってきた上條)


上條:「・・・っ。」


美代子:「・・・あ、お帰りなさいませ。お夕飯できていますよ。いま、用意しますね。」


上條:「別に良いです。座っていてください。見ていて危なっかしいので。」


美代子:「・・・。」


上條:「どうしたんですか?はやく座ってください。」


美代子:「分かりました。」


上條:「医者の話ですが・・・」


美代子:「はい。」


上條:「貴女には関係のないことでした。」


美代子:「そう、ですか。」


上條:「・・・。」


美代子:「・・・。」


上條:「メジロ、外で見たんですか?」


美代子:「いえ、外には出ませんでした。」


上條:「・・・私はもう出て行ったかと思いました。」


美代子:「え・・・?」


上條:「外に出ても良いと言ったでしょう?」


美代子:「・・・出て行きませんよ。

だって、まだ上條さんの復讐が終わっていないんですもの。」


上條:「・・・そうですか。」


美代子:「(小声で)ごめんなさい。・・・ずるいことを言って。」


上條:「なにか言いました?」


美代子:「・・・いいえ、なんでもありません。」



=================



(部屋で絵を描いている上條)

(ノック音)


上條:「なにか用ですか?」


美代子:「あ、あの、お茶をお持ちしました。」


上條:「前にも言いましたがそういうことはしなくて結構です。転んで火傷をしても放っておきますよ。」


美代子:「片手は空いていますし、大丈夫です。このぐらいのことならできますから。」


上條:「(溜息をつく)

・・・そこに置いておいてください。」


美代子:「はい。」


上條:「見ますか?」


美代子:「え?」


上條:「まだ描き途中ですが。」


美代子:「いいんですか?」


上條:「どうぞ。」


美代子:「ありがとうございます・・・。

・・・前よりも桜の花が増えましたか?」


上條:「ええ。」


美代子:「相変わらず綺麗な絵ですね。完成するのが楽しみです。」


上條:「・・・。」


美代子:「・・・あの」


上條:「なんですか?」


美代子:「どうしてここだけ何も描いていないんですか?真ん中なのに。」


上條:「描きたい人がいるんです。真ん中にね。」


美代子:「人、ですか?」


上條:「はい。」


美代子:「・・・。」


上條:「すいませんが、そこの窓を開けてもらってもいいですか?貴女のすぐ後ろの窓です。」


美代子:「は、はい。」


上條:「・・・良い天気ですね。」


美代子:「ええ。摘草にでかけたくなるようなあたたかさです。」


上條:「これだけあたたかいなら、桜の見ごろも近いでしょうね。庭のもいくつか咲いていますから。」


美代子:「この絵の場所には行かないんですか?」


上條:「・・・ああ、行くつもりですよ。その内。」


美代子:「・・・私も。」


上條:「はい?」


美代子:「・・・いえ、何でもありません。」


上條:「・・・。」


美代子:「・・・。」


上條:「貴女を連れて行くのは難しいかもしれませんね。」


美代子:「え・・・?」


上條:「貴女も自由には動けませんし。」


美代子:「・・・ごめんなさい。」


上條:「それに私は人目を惹きやすいですから。ですから堂々と貴女を連れ歩くのは難しいでしょう。行けたとしても夕方

になってからでしょうね。」


美代子:「・・・ふふ。」


上條:「なにを笑っているんですか?気味が悪いですね。」


美代子:「ごめんなさい。なんでもないんです。」


上條:「・・・貴女は良く笑いますね。」


美代子:「そうですか?」


上條:「・・・ええ。

ほら、用は済んだのでしょう?はやく出て行ってください。」


美代子:「は、はい。失礼します。」


(部屋を出ていく美代子)


上條:「おかしな話だな。

・・・変わらないのに変わっているのだから。」



=================



(数日後、日が傾き始めた頃)


上條:「ああ、こんなところにいたんですか。」


美代子:「あ、上條さん・・・。どうかされたんですか?」


上條:「出かけますよ。」


美代子:「急ですね。お勤めですか・・・?」


上條:「何を言っているんですか?貴方も行くんですよ。」


美代子:「え?」


上條:「良いから黙ってついて来てください。」


美代子:「あ、あの、待ってください・・・っ」


上條:「そのままで大丈夫ですよ。誰も貴女の格好何て気にしないでしょうし、人ともそんなに出くわさないでしょう。」


美代子:「そうではなくて、ご迷惑じゃありませんか・・・?私、歩くのが遅いから。」


上條:「どうだっていいですよ。

ほら、行きますよ。はやくしないと日が沈みます。」


美代子:「は、はい。」


=================


(人通りの少ない道を歩く。)

(少し先で足の遅い美代子のことを待つ上條)


美代子:「ごめんなさい。足が遅くて。」


上條:「謝る暇があるんだったら早く歩いてください。無理なら謝らないでください。」


美代子:「は、はい。ごめんない。」


上條:「・・・。」


美代子:「あ、あの本当に人と会いませんね。」


上條:「この辺りまで来ればそうでしょうね。

通ってきた道も貧民長屋ぐらいしか建っていませんから。元々治安が悪くて人通りが少ないんですよ。その長屋も流行り病

でもぬけの殻になりましたが。

それに誰かいたとしても今日は隣町で祭りがあってそちらを見物しに行っていると思いますよ。」


美代子:「お祭り?」


上條:「お祭りみたいなものです。民権運動なんて。

信念があって参加している方もいるんでしょうが、そうじゃない人だって大勢います。

まあ、治安警察法が制定されたので、これからどうなるのか楽しみではありますが。」


美代子:「上條さんは興味ないのですか?」


上條:「ありませんね。今の時点で不自由なく暮らせていますので。どれも私には関係のないことです。

・・・金さえあればどうにでもなるんですよ。人も何もかも全て。」


美代子:「・・・そうですか。」


上條:「貴女は興味あるんですか?」


美代子:「ありません。

・・・自分自身のこともよく分からないのに。」


上條:「・・・。」


美代子:「上條さん、」


上條:「なんですか?」


美代子:「あとどのくらいで着きますか?」


上條:「もう着きます。

本当は馬車でも頼めば良かったのかもしれないのですが、生憎私は馬車が嫌いなものでして。」


美代子:「・・・っ。」


上條:「・・・見えてきましたよ。」


美代子:「あ・・・」


上條:「来るには少し早かったかもしれませんね。」


美代子:「・・・でも、とても綺麗です。」


(やがてたどり着いた場所はあの絵と同じ美しい景色が広がっている。)


上條:「ええ・・・。今年もここの桜は美しい。

日が暮れる前に着いてよかった。」


美代子:「・・・夕日に照らされて、いつもの桜とは違う美しさがありますね。きっとどんな時に見ても美しいんだわ。」


上條:「・・・。」


美代子:「上條さん。」


上條:「なんですか。」


美代子:「連れてきてくださってありがとうございます。」


上條:「・・・。

・・・この場所は私にとって大切な場所なんです。

私にとってかけがえのない大切な人との思い出の場所なんです。」


美代子:「・・・っ」


上條:「もう、いないんですけどね。」


美代子:「いないって・・・」


上條:「言葉通りですよ。」


美代子:「・・・ごめんなさい。そんな大切な場所に行きたいだなんて言ってしまって。

・・・本当は私なんかではなく、その方と一緒に見たかったでしょうに。」


上條:「・・・そうですね。私もそう思います。どうして貴女なんかをここに連れてきてしまったのか、と。」


美代子:「・・・っ。」


上條:「・・・。」


美代子:「上條さんは・・・、私のことが憎いですか?」


上條:「・・・ええ、それはそれは憎んでいます。

きっと、貴女が考えている以上に。」


美代子:「・・・。」


上條:「・・・綺麗ですね。」


美代子:「・・・そうですね。

・・・痛いぐらいに。」



=================



(数日後)

(階段を一人で下りている美代子)


美代子:「・・・っと。あと少し・・・っと。

(溜息を吐く。)

まだまだ階段は覚束ないわね。

お部屋のお掃除は終わったけれど、上條さんのお部屋も掃除するかどうか聞かないと。

・・・最近、あまり体調がよくなさそうだもの。埃はよくないわ。お部屋にいるかしら。


(窓の外から見える桜の木にメジロがとまっている)


あ、メジロ・・・。前に来た子と同じ子?

今日は一羽なのね。

・・・私もはやく一人で出て行かなきゃいけないのに。何をしているのかしら。

あんなずるまで言って。でもそれでも私は・・・。


あ、もう一羽・・・。ふふっ、お迎えが来たのね。


・・・私も行かないと。一人でも。」


(上條の部屋をノックする美代子)


美代子:「上條さん?入りますよ。」


上條:「・・・。」


美代子:「・・・上條さん?眠っているんですか?」


上條:「・・・。」


美代子:「上條さん?」


上條:「(熱に魘されている)」


美代子:「上條さん?どうされたんですか・・・?

・・・っ、酷い熱だわ。」


上條:「ぅ・・・。」


美代子:「上條さん・・・っ?」


上條:「・・・なんですか、煩いですね。聞こえてます・・・、」


美代子:「あ、あの熱が」


上條:「なんでもありません。風邪をすこし引きずっているだけです」


美代子:「お医者様を呼んだ方が」


上條:「呼ばなくていいです。」


美代子:「でも・・・っ」


上條:「ふっ、貴女が医者を呼んでくれるんですか?診療所がどこにあるのかも知らない、一本足の貴女が?」


美代子:「・・・っ。」


上條:「・・・いいから寝かせてください」


美代子:「じゃあ、何か必要なものはありませんか?」


上條:「・・・。」


美代子:「上條さん?」


上條:「(熱に魘されている)」


美代子:「上條さん・・・っ?上條さん?

・・・駄目だわ。お医者様を呼ばないと・・・っ」


(部屋を出る美代子)


美代子:「はやく・・・はやくしないと・・・っ。」


(外へでる美代子。人通りの多い道まで出て通行人に聞こうとする。)


美代子:「・・・す、すいませんっ!あの、お医者様がどこにいるか教えてはくれませんか・・・っ?

あの、どなたか・・・

きゃっ・・・。」


(人にぶつかり倒れる美代子)


美代子:「ご、ごめんなさい・・・っ!

あの誰かお医者様を・・・っ。

(通行人に蹴られる。)

う・・・っ、どうして急に蹴って・・・

え・・・?気持ちが悪い・・・?足がないから?

・・・っ、ご、ごめんなさい。足がなくて・・・っ。あの、お医者様を・・・うぐ・・・っ」


(通行人はもう一度蹴っ飛ばすと去っていった)


美代子:「(咳き込む)

痛い・・・。

駄目だわ・・・。はやく・・・はやく呼ばないと・・・。

・・・っ。

あの、どなたかお医者様を呼んではいただけないでしょうか・・・っ?!」



=================



(日がもう暮れ、夜になった)


上條:「・・・ぅ」


(目を覚ます上條)


美代子:「・・・っ。大丈夫ですか・・・っ?」


上條:「今、は・・・?」


美代子:「もう夜になりました。」


上條:「・・・。」


美代子:「具合のほうはどうですか・・・?」


上條:「・・・大分よくなりました。」


美代子:「あ、灯りつけます?」


上條:「・・・いえ、大丈夫です。月明かりで充分ですから。」


美代子:「そうですか。お腹は空いていませんか?何かお持ちしますよ。」


上條:「いえ、いりません。今はここにいてください。」


美代子:「え・・・?」


上條:「・・・。」


美代子:「分かりました。」


上條:「・・・その顔、どうしたんですか?手当てはされているようですが。」


美代子:「え?あ、ああ、さっき転んでしまったんです。階段はまだ難しいですね。」


上條:「・・・嘘ですね。」


美代子:「・・・っ」。


上條:「ここに医者を連れてくるために外に出ませんでしたか?」


美代子:「どうして・・・?」


上條:「貴方ならそうするだろうと思っただけです。」


美代子:「・・・ごめんなさい。勝手なことをして。」


上條:「片足だけの人間はこの辺りではかなり珍しい。しかも貴女は女です。外に出ればそういったことになるだろうとも

思っていました。」


美代子:「・・・。」


上條:「よく医者をここに連れて来られましたね。」


美代子:「通りかかった方が呼んでくださったんです。いつも来てくださっているお医者様と同じ方でした。」


上條:「医者からなにか聞きましたか?」


美代子:「疲労だろうと仰っていました。また明日来てくださるそうです。」


上條:「そう、ですか・・・。」


美代子:「・・・上條さん。」


上條:「なんですか?」


美代子:「私は・・・ここを出て行ったほうがいいのでしょうか?」


上條:「・・・は?」


美代子:「ごめんなさい。私がはやくに出て行かなかったから。面倒をかけてしまってそれで」


上條:「出て行ってどうするつもりなんですか?また今日と同じ目に遭うつもりですか?次は運悪く死ぬかもしれません

よ。」


美代子:「・・・っ。」


上條:「別にここにいても構わないと私はそう言ったはずです。」


美代子:「だって、私、上條さんに殺されても仕方がないことをしたんだもの。」


上條:「貴女、記憶が」


美代子:「残念ながら戻っていません。ただ知っただけです。

私が貴方の大切な人を殺してしまったんだって。」


上條:「殺した・・・?」


美代子:「倉庫でたまたま見つけて読んでしまったんです。馬車の事故の記事でした。私が上條さんの婚約者の命を奪って

しまったと。」


上條:「・・・ふ、ふふっ」


美代子:「・・・。」


上條:「あはははは・・・っ。貴女は面白いことを言いますね。貴女が私の婚約者の命を奪った?ふふっ、そんな記事を読

んでそれを信じたんですか?この前も言ったでしょう?

金さえあればどうにでもなるんですよ。人も物も全て。真実だってそうです。」


美代子:「上條さん・・・?」


上條:「貴女が目を覚ますまで私がどんな思いで過ごしていたか分かりますか・・・?貴女のことをどれほど思っていたの

か分かりますか・・・!?」


美代子:「・・・なにを言っているんですか?」


上條:「それなのに目を覚ました貴女は全部忘れていたんです・・・。そんな貴女が恨めしかった。全部忘れているのに昔

と変わらない声で話す貴女が、昔を思い出させるような表情を浮かべる貴女が憎くて仕方がありませんでした。それなの

に・・・っ!


・・・それなのに、私はまた、貴女に惹かれているです。」


美代子:「・・・っ」


上條:「・・・これを見てください。描き終わったんです。やっと。」


美代子:「これは・・・」


上條:「・・・約束してから2年が経ってしまいました。


私が描きたかったのは貴女なんですよ。・・・美代子さん。」



=================



(約1年前)

(桜が咲き始める頃、あの場所にて)


美代子:「ねえ、誠さん、どのくらい描けました?」


上條:「まだまだですよ。あともう少しそのままでいてください。」


美代子:「何だか恥ずかしいわね。」


上條:「美代子さんが仰ったんですよ?ここの景色と自分の絵を描いてほしいと。」


美代子:「でも一年前に言ったことを覚えてくださっているだなんて思わなかったんですもの。

こんなくたびれたのなんかじゃなくて、もう少し綺麗なお着物を用意できたら良かったんだけれど。」


上條:「だから私が仕立てても良いと言ったではありませんか。美代子さんなら藍鼠(あいねず)のような落ち着いたもの

の方が似合いますかね。」


美代子:「私なんかにお金を使うだなんて勿体ないわ。それに誠さんから何かもらっただなんて知れたら色んな人に恨まれ

てしまうもの。

もしかしたら貴子(たかこ)様にも知られてしまうかもしれませんし。」


上條:「まだ、婚姻はしていません。」


美代子:「でも、もう少しで夫婦になるのでしょう?」


上條:「美代子さんは・・・」


美代子:「なんですか?」


上條:「いえ・・・、なんでもありません。」


美代子:「・・・それにしても、今年も綺麗に咲きましたね。」


上條:「ええ。」


美代子:「・・・誠さんと会ってもう二年が経つと思うと不思議です。

昨日のことのように思い出せますよ。本当に驚いたんですから。私のお気に入りの場所に誰かいると思ったら上條家のご子

息だったなんて。」


上條:「私も覚えていますよ。美代子さん、歌いながら歩いてきましたからね。」


美代子:「花の一番でしょう?お気に入りの歌なんですもの。

・・・でも、良かった。誠さんがここを気に入ってくださって。ここでしか私たち会えないんだもの。

私、誠さんとお喋りするのも、誠さんの絵を見るのも好きですよ。」


上條:「・・・そうですか。」


美代子:「そういえば誠さんはお勤めの方は大丈夫なんですか?お忙しいと仰っていたでしょう?」


上條:「忙しいのでしょうが私にはどうでもいいことです。家にいると息が詰まって仕方がない。絵すら自由に描けないん

ですから。」


美代子:「誠さん・・・。」


上條:「・・・貴女ぐらいなものでしょうね。同じ空間にいても不快だと思わないのは。」


美代子:「そんなことありません。まだ貴子様ともちゃんとお話できていないのでしょう?」


上條:「それは・・・。」


美代子:「(咳き込む)」


上條:「美代子さん・・・、大丈夫ですか?」


美代子:「近寄らないでください・・・!」


上條:「・・・っ」


美代子:「あ・・・、ご、ごめんなさい。その、うつったりしたら困るでしょうから。」


上條:「・・・最近、咳がよくでていますが大丈夫ですか?」


美代子:「大丈夫です。

・・・もうそろそろ戻らないと。お使いの途中で寄り道しているのが見つかってしまったら大目玉をくらうわ。お給金がも

らえなくなってしまいます。」


上條:「はした金でしょうに。

いっそ、私の家で雇ってもらえるように口利きしましょうか?今よりもいい給金がもらえると思いますよ。」


美代子:「いいえ、大丈夫です。

・・・私が傍にいては誠さんに迷惑がかかるもの。」


上條:「・・・。」


美代子:「それでは失礼しますね。またお会いしましょう。」


(去っていく美代子)


上條:「貴女が一言でも言ってくれさえすれば私は・・・。

・・・本当に思い通りにいかないな。」



=================



(数日後)

(桜の下で絵を描いている上條の元に美代子がやってきた。)


上條:「・・・。」


美代子:「あ、誠さん。いらしていたんですね。」


上條:「・・・ああ、美代子さん。」


美代子:「ええ。

あ・・・、メジロがいますね。」


上條:「ああ、かわいいですね。」


美代子:「・・・。」


上條:「美代子さん・・・?」


美代子:「誠さん。

・・・今日は誠さんにお伝えしたいことがあるんです。」


上條:「急に改まって何なんです?」


美代子:「私、もう貴方にはお会いできません。」


上條:「・・・は?」


美代子:「ご主人様からしばらくお暇(いとま)をいただけることになったので、少し遠い所にでも行って休もうかと思っ

てて。」


上條:「本当にそれだけですか?」


美代子:「・・・はい。」


上條:「ですが遠いところに行くってどこに行かれるつもりなんですか?資金だってそれなりに必要でしょう?」


美代子:「行先もお金のことも心配いりません。ご親切な方が用意してくださいましたので。桜が散る頃にはここを発とう

と思っています。」


上條:「私もご一緒します。」


美代子:「それはいけません。誠さんはもうすぐご婚姻されるのですから。」


上條:「貴女は・・・」


美代子:「・・・なんですか?」


上條:「貴女は・・・それでいいんですか?

私が婚姻しても・・・、私ともう会うことができなくなってもいいんですか?」


美代子:「・・・はい。」


上條:「・・・ふざけるな。」


美代子:「・・・。」


上條:「それならここで過ごした時間はなんだったんですか・・・!?貴女はなにを思ってここにいたんですか?!」


美代子:「幸せでした。」


上條:「・・・っ。」


美代子:「幸せでしたよ。」


上條:「なら、嫌だと縋ればいいじゃありませんか・・・?

貴女が嫌だと縋ってくれれば私はこの縁談を断れるんです。貴女の傍にいくらでもいてあげられます。

だから・・・だから、言ってくださいよ。一言で良いですから・・・。嫌だと、そう言ってください。」


美代子:「・・・縋りませんよ。だって私がお傍にいたんじゃ誠さん、幸せになんかなれないもの。」


上條:「・・・っ。」


美代子:「幼い頃に親と死に別れたけど、運よくここまで生きて来られました。暮らしは貧しく決して恵まれたものではあ

りませんでしたが、それでも私は誠さんとお会いするようになってから、毎日が幸せでした。

だからこそ、私は誠さんに幸せになってほしいんです。私にできることは誠さんの幸せを願い続けることだけですから。」


上條:「なにを勝手なことを・・・」


美代子:「誠さんは立派な方です。そんな方が私のような者に縋ってはいけません。誠さんは私と違って一人ではないんで

すから。そんな方の手を私は取ることができません。」


上條:「・・・本当にそれでいいんですね?」


美代子:「ええ。」


上條:「・・・ははっ、じゃあもうこれはいりませんよね・・・っ!」


(描き途中だった絵を地面に叩きつける)


美代子:「・・・っ。」


上條:「・・・完成間近だったんですが、もういらない絵を取っておいても仕方がありませんから。」


美代子:「・・・。」


上條:「そうですよね。私と貴女ではつり合いが取れませんよね。

・・・ありがとうございます。おかげさまで目が覚めました。」


美代子:「・・・。」


上條:「それじゃあ、私はもう帰ります。今までありがとうございました。それでは。」


美代子:「・・・誠さん。」


上條:「・・・。」


(その場から去っていく上條)



=================



(桜が散り始めた頃)

(あの場所を再び訪れた上條)


上條:「ああ、やはりここにいましたか。」


美代子:「あ、誠さん。どうしてここに・・・?」


上條:「貴女には一応、お礼を言うべきだと思いましてね。もうそろそろここを発つのでしょう?」


美代子:「え、ええ。明後日には。」


上條:「貴女が仰った通り、案外貴子さんも良い人だと気が付きましてね。今では惚れ込んでいますよ。貴女が目を覚まさ

せてくれたおかげです。ありがとうございました。」


美代子:「・・・。」


上條:「縁談相手は青山家の令嬢で私ともつり合いが取れていますし、それに顔も美しい。ね、お似合いでしょう?」


美代子:「・・・ええ。素敵な夫婦になるでしょうね。」


上條:「貴女とは違って、人目を忍ぶこともなく会うことができますし、とても楽です。

それに、上條家には及ばずとも青山家は影響力のある家です。私が貴子さんと積極的に関わるようになったことで、父も機

嫌がいいですし良いこと尽くめです。」


美代子:「・・・それでは、いま誠さんは幸せなんですね。」


上條:「・・・ええ、幸せですよ。」


美代子:「なら私も嬉しいです。」


上條:「・・・。」


美代子:「・・・誠さん。」


上條:「・・・はい。」


美代子:「今度こそ、会うことはないのでしょうね。」


上條:「そうでしょうね。会う意味もありませんから。

・・・それでは私はこれで。人を待たせているので。」


美代子:「・・・誠さん。」


上條:「なんですか?」


美代子:「・・・末永くお幸せに。本当にありがとうございました。」


上條:「・・・ええ、さようなら、美代子さん。」



=================



(二日後)

(大通りを何人かと歩く上條)

(辺りをしきりに気にする)


上條:「・・・なんだ?

何か気になること・・・?いや、次の取引をどうはやく終らせるべきか考えていた。

時間を作ってどこかで、あの人と会わないと面倒なことになるからな。

貴子・・・?ああ、そんな名前だったか。」


(大通りの先で見知った顔をみつける)


上條:「あれ、は・・・、貴子さんと、美代子さん・・・?

どうしてあの二人が一緒に・・・?

いや、少し気になることがあってな。何でもない。お前たちはここにいろ。」


(二人の元へ歩み寄ろうとする上條)


上條:「一体、なんの話をしているんだ?

ん・・・?何の音だ?騒がしいな。・・・あれは馬車か?」


(二人の向こうから暴走した馬に引かれた馬車が迫る)


上條:「・・・っ!!

美代子さん・・・!!危ない・・・!!」


美代子:「え・・・?

っ!!貴子さま、こちらへ・・・!!」


(貴子を庇う美代子)


上條:「っ!!」


美代子:「ぅ・・・。」


(美代子の元に駆け寄る上條)


上條:「美代子さん・・・?美代子さん・・・!!

誰か早く医者を呼んでくれ!!


・・・っ。

貴子さん、すいません。後にしてください。今はそれどころではないと分からないんですか・・・!!

・・・は?

今、なんて言いました?

どちらにしろすぐ死ぬ予定だったんだから良かった、とそう仰いましたよね。

・・・貴女だったんですか。美代子さんをそそのかしたのは。

流行り病?美代子さんが?

だから何なんですか?私にうつろうがそんなことはどうでもいいんです。そうだとしても私は・・・っ。

・・・貴女との結婚は取りやめにします。もう二度と顔を見せないでください。

二度も言わせるな。はやくここから失せろ!!


・・・美代子さん。

絶対に死なせはしませんから。だから、目が覚めたら今度こそ私は・・・っ」



=================



(回想終了)


上條:「“何があっても貴女を手放さない”、そう伝えるつもりでした。」


美代子:「・・・。」


上條:「あの後、私は青山家との縁談を勝手に白紙に戻したことにより父と仲違いしました。本当は勘当したかったのでし

ょうが、体裁を気にしてそのようにはしなかった。貴女が読んだ記事もそうです。あれは家の体裁を守るために金を積んで

書かせたものですから。」


美代子:「書かせた・・・?」


上條:「上條家は私の一連の行動を隠したかった。青山の令嬢を突き放して勝手に縁談を白紙にした挙句、違う女を助けよ

うと必死になっていたわけですからね。

ですが、隠したかったのは上條家だけではなく、青山家もまた同じでした。」


美代子:「なぜですか・・・?」


上條:「事故の直後、青山家の令嬢は自ら命を絶とうとしたんです。」


美代子:「・・・っ!」


上條:「安心してください。上手くいかず死にはしなかったようですから。ですが、心を病んでしまいどこか遠いところに

移ったそうです。

・・・あの記事は青山にとっても上條にとっても最も都合のいい内容でした。青山にとっては娘が狂ってしまったことなど

公にはしたくないでしょうし、上條はその原因が私であると知られたくはない。

見物人もいましたが、ああやって記事が出てしまえばそんなことはなかったことになる。

まあ、誰も貴女が生きているとは思っていないので、貴女の死亡に関しては真実として書かれたんだと思います。

実際は変わり者の親切な医者が助けてくれたんですが、誰も知りませんから。」


美代子:「・・・。」


上條:「あの後、私は勘当はされなかったものの、跡目争いからは外され家も追い出されこの屋敷に越してきました。

それと同時に貴女を診療所からここに移したんです。

体裁のために用意された屋敷ですが都合が良かった。ここには誰も訪れませんからね。」


美代子:「・・・ずっと一人で目を覚ますのを待っていたんですか?」


上條:「ええ、待っていました。貴女が流行り病に罹っていたとしても構わないと思っていましたから。」


美代子:「・・・実際に私はその病に罹っていたのでしょうか?」


上條:「分かりません。」


美代子:「え?」


上條:「流行り病は一年ほど前から貧困層で見られ始めたそうです。だからこそ、青山の令嬢も美代子さんが罹っていると

判断したのでしょう。あの女に関しては貴女を私から遠ざけるための理由を探し、こじつけたようなものなのでしょうが。

ですが実際に貴女が住んでいた長屋でも多くの患者が見られました。今ではもう誰もいませんしね。」


美代子:「以前、通りかかった長屋は・・・」


上條:「ええ・・・、貴女が住んでいた場所です。

貴女が一年前、どうだったかは分かりません。

明確な症状が出るまでは診断できないそうですから。治療する術はありませんが治る可能性もありますし、進行する速さも

人によって全く異なるので、貴女が今どういう状況なのかは全く分かりません。

・・・ですが、罹ってしまった可能性は高いでしょうね。もしも、あの時にそうでなかったとしても。」


美代子:「・・・上條さんの体調が優れないのは同じ病に罹ったからなんですね。」


上條:「・・・貴女にしては勘が良いですね。」


美代子:「・・・っ。」


上條:「先ほども言いましたが、美代子さんからうつったのかは分かりません。

仮にそうだとしても私はそれで良いと思っていたのですから。」


美代子:「・・・。」


上條:「それなのに目を覚ました美代子さんは記憶を失い、以前の貴女とは別人のようになりました。

そんな貴女に惹かれるなど頭がおかしくなってしまったんだと思っていたのですが、ほら顔は同じです。

この絵、受け取ってください。なかなか上手に描けているでしょう?」


美代子:「・・・。」


上條:「美代子さんはいつもこうして優しく微笑んでいました。人として美しい方でした。」


美代子:「・・・っ。」


上條:「ああ、だからこそ私は貴女に惹かれていたんです。記憶を失くしても貴女は貴女でしょう?記憶を失くした貴女に

惹かれるのも当たり前です。何らおかしいことではありませんよね。そうです、私がおかしくなったわけではないんです。

貴女は美代子さんだ。人の幸せを願える優しい人で、愛情深い人です。私はもう貴女を手放しません。

ですからどうぞこの絵を受け取ってください。美代子さん。」


美代子:「上條さん。私、その絵は受け取れません。」


上條:「・・・なぜですか?」


美代子:「私はその絵の私みたいに慈愛に満ちた微笑みを浮かべることができません。」


上條:「なにを・・・」


美代子:「私はこの話を聞くまで私が上條さんの大切な方を殺してしまったんだと思っていました。

それなのに私は貴方の復讐がなにも為されていないからとここに居座りました。

さっきだってお医者様から貴方が疲労で倒れたと聞いた時さえ、私のせいだと思いながらも出て行ったほうがいいのかと貴

方に聞いたんです。

上條さんの傍にいたいがためにずるをしたんです。

・・・本当に上條さんの幸せを願える人だったのであれば何も言わずにここを出ていくはずなのに。」


上條:「・・・。」


美代子:「でも、これでやっと出ていく決心がつきました。」


上條:「・・・出て行ってどうするんですか?今日みたいな目に遭っても構わないと言うんですか?」


美代子:「野垂れ死のうとも、貴方の傍にいるぐらいなら死んだ方が良いです。

だって、私。上條さんがずっと待っていた美代子じゃないんですもの。」


上條:「・・・っ」


美代子:「今までお世話になりました。

・・・どうか、お元気で。」


(部屋を出ていく美代子)


上條:「・・・私だって分かっているんです。貴女が、私の知る美代子さんではないということぐらい。

だからこそ分からないんです。桜を見に行ったあの日、私は貴女のことを・・・。」



=================



(回想)

(桜を見る二人)


上條:「綺麗ですね。」


美代子:「・・・そうですね。

・・・痛いくらいに。」


上條:「・・・そろそろ帰りましょう。日が沈んでしまいます。」


美代子:「・・・。」


上條:「・・・聞こえてますか?もう帰りますよ。」


美代子:「もう少しだけ見ていたいんです。」


上條:「・・・そんなに気に入りましたか。」


美代子:「貴方と一緒に見ることができて嬉しいんです。」


上條:「・・・っ。」


美代子:「上條さんにどれほど憎まれていたとしても私はそう思います。」


上條:「・・・よく、そんなことが言えますね。」


美代子:「・・・。」


上條:「その言葉は貴女だけには言われたくなかった。」


美代子:「・・・ごめんなさい。」


上條:「・・・ここの景色は本当に美しいとそう思っていました。あの人がいたからそう見えていただけだと思っていたの

ですが、今は今で美しく見えます。

・・・桜の花とはすごいものですね。」


美代子:「・・・ええ。」


上條:「さあ、もう帰りますよ。夜になってしまいます。」


美代子:「上條さん・・・っ」


上條:「なんですか?」


美代子:「・・・何でも、ありません。」



=================



(翌日の夕方)

(秘密の場所にて桜の木に背を預けている美代子)


美代子:「・・・また、一緒に見たいとそう言いたかったんですよ。

・・・ここいるとあの日のことを思い出してしまうわ。

私の我儘で飛び出したのに。


やっぱり綺麗な景色ね。

良かった。日暮れまでにはたどり着いて。


・・・きっとこの景色が特別なのは上條さんと一緒に見た景色だからなんだわ。

・・・他にも見てみたかった。

きっとどこだって私には美しく見えるもの。


でも、・・・もう二度と上條さんと見ることはないんだわ。

ふふ・・・っ、嫌だわ。本当に苦しくて、痛くて・・・っ。

ああ、本当にもうきっと会えない・・・っ。

私、本当に好きだったのよ。

何も覚えてないのに、あの人のことを好きになったの・・・っ。

昔の私じゃない。今の私が好きになったの・・・っ!

足がなくても、病に罹っても、今なら私あの人の手を離さなかったのに。

それなのに・・・っ!


・・・私は、あの人が待っている美代子じゃなかったんだもの。」


上條:「ここにいたんですか・・・っ!?」


美代子:「・・・っ!」


(息を切らした上條がこちらへと向かってくる)


上條:「あ、貴女ね・・・、どうして意味の分からない道を歩くんですか・・・!おかげさまで全く見つかりませんでし

た・・・!!」


美代子:「上條さん・・・?」


上條:「私、病み上がりなんですよ?それなのにこんなに走らせるとは本当に馬鹿なんですね。」


美代子:「本物、ですか・・・?どうして・・・?」


上條:「・・・貴女に伝えなければいけないことがあったんです。」


美代子:「え?」


上條:「貴女は確かに美代子さんですが、記憶を失う前の美代子さんとは全く似ていません。

美代子さんは貴女のように馬鹿でも愚鈍でもありませんでしたし、鶯とメジロを間違える様なこともありませんでしたし、

貴女のように幼い子供のような振る舞いもしませんでした。

一人でへらへら笑うことも、見ていて苛つくことも、腹が立つこともありませんでした。それに・・・っ」


美代子:「・・・。」


上條:「ああ・・・っ、クソ・・・っ。こんなことが言いたかったわけじゃないんです。


(呼吸を落ち着ける。)


・・・私は、記憶のない美代子さんに対して、よく分からない感情を抱いています。以前の美代子さんに抱いていたものと

は違う感情です。」


美代子:「・・・っ」


上條:「その感情に今は名前を付けることはできません。ですが、認めたくはありませんが確かに私は貴女を傍に置いておきたいと少しは思っているんです。」


美代子:「でも、それは」


上條:「言っているでしょう?記憶を失う前の美代子さんではなくて、貴女を見てそう思っているんです。世話が焼ける貴女のことを、よく笑う貴女のことを見てそう思っているんです。」


美代子:「・・・本当ですか?本当に私なんですか?」


上條:「だからそうだと言っているでしょう。何度言わせるんですか。」


美代子:「・・・ふふっ、そうなんですね。本当に私なんですね。」


上條:「・・・泣かないでください。面倒くさい。」


美代子:「ごめんなさい・・・。」


上條:「・・・それと、もう一つ貴女に言いたいことがあります。」


美代子:「なんですか?」


上條:「・・・目が覚めたら、何があっても貴女を手放さないとそう伝えるつもりだったのですが、貴女にはそんなことを

言うつもりはありません。」


美代子:「・・・はい。」


上條:「昨夜も話しましたが私は流行り病に罹ってしまいました。ですが、療養所に行くつもりはありません。」


美代子:「え・・・?」


上條:「家とも縁を切り、これからは先はやりたいことをやろうと思っているんです。」


美代子:「やりたいことですか・・・?」


上條:「遠出もしていませんでしたし、働きづめでしたから旅に出ようかと。ここだけではない絵も描きたいですしね。

ですが、貴女を無理やりにでも連れて行こうとは思っていません。

貴女だって病に罹っている可能性がありますから、療養所に行きたいのであれば手配します。ここで静かに暮らしたいので

あれば用意しましょう。

もしも、一緒に来たいのであれば、それでも構いません。」


美代子:「・・・。」


上條:「・・・どうされますか?」


美代子:「そんなもの決まっています。私は上條さんと一緒に行きたいです。」


上條:「良いんですか?早々に死ぬかもしれませんよ?私も貴女も。」


美代子:「それでも良いんです。私が貴方のお傍にいたいだけですから。」


上條:「・・・お好きになさってください。

もう帰りましょう。色々と用意するものもあるでしょうから。」


美代子:「上條さん。」


上條:「なんですか?」


美代子:「また一緒に桜をみましょうね。この場所じゃなくても、どこかで見ましょうね。。」


上條:「・・・ええ、どこで見ても美しいでしょうから。きっと。」



=================



(数日後)

(出立するために先に外に出ている美代子)


上條:「美代子さん、まだですか?」


美代子:「もう大丈夫です。ごめんなさい、お待たせしてしまって。」


上條:「・・・天候にも恵まれましたし、出立するには良い日ですね。」


美代子:「そうですね。

あ・・・っ、メジロだわ。お見送りしにきてくれたんですかね。」


上條:「そうかもしれませんね。」


美代子:「・・・私も迎えに来てもらえたのよ。」


上條:「なにか言いましたか?」


美代子:「何でもありません。あ、あの」


上條:「なんですか?」


美代子:「お着物ありがとうございます。」


上條:「・・・私の隣を歩くんですから、それなりのものを着ていただきたかっただけです。

ですが、その色にして正解でした。貴女にはそういった可愛らしい色が似合う。」


美代子:「・・・ありがとうございます。」


上條:「他意はありませんよ。」


美代子:「ええ、分かっていますよ。」


上條:「・・・最後に聞きますが本当にいいんですね?」


美代子:「はい。上條さんこそ本当に良いんですか?私、片足がないからきっとたくさんご迷惑をおかけしますよ。」


上條:「そんなの足があったところで変わらないでしょう。

ほら、行きますよ。手、出してください。」


美代子:「え?」


上條:「貴女、見ていて危なっかしいんですよ。だからこうしていた方が安心できます。」


美代子:「ふふ・・・っ。」


上條:「なんなんですか?」


美代子:「上條さんは立派な方だけど、寂しがり屋なところがありますよね。」


上條:「馬鹿にしています?そもそもこれは私ではなく、貴女の為を思って」


美代子:「分かっていますよ。ただ、今度は私がちゃんと手を握っていようと思っただけです。」


上條:「・・・。」


美代子:「・・・上條さん?どうかしましたか?」


上條:「いえ、今、少しだけこの感情が何なのか分かったような気がしただけです。」


美代子:「え?」


上條:「今はまだ教えられません。まだ不確かなので。

ですが、いつか教えて差し上げますよ。いつかは分かりませんが。」


美代子:「それまではお傍から離れるわけには行きませんね。」


上條:「ええ。

・・・さあ、行きましょう。美代子さん。」


美代子:「はい、上條さん。」



上條:「・・・ああ、本当に今日は春らしい良い日だな。」



=================



上條M:「ある美術館に美しい絵画が展示されている。

桜の中で一人の女が笑みを浮かべている光景が描かれたものだ。

明治時代に描かれたとされるこの作品は一体誰によって描かれたものなのか、誰を描いたものなのか、全てが謎に包まれたままである。

だが、薄紅色の着物に身を包み、幸せそうな女の笑みを見た者は皆こう思うのだ。


“この画家はこの女のことをたいそう愛おしんでいたのだろう”と。」


読んでくださってありがとうございます。

下記のボタンからあとがきのページに飛ぶことができます。


また、感想をTwitterやWaveboxなどからいただけますと、大変嬉しく思います!