落鳥 -SideStory-

こちらは落鳥のサイドストーリーのページになります。

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side story1 「飛べなかった鳥の話」

宗教法人 神の家。

救われたいと願う者に神の加護を与える場所。


神の家は現代表者の田代英明の父である田代敏明によって設立された。

自らを神だと名乗る田代敏明は、人々を救うために神の加護を与えてくださるのだそうだ。

そしてその力は息子である田代英明にも受け継がれており、神の家は今も人々を救い続けている。

だが、全て嘘だと青年は知っていた。


「お前は神に対する畏敬が足りない。」


そんな言葉と共に振り下ろされる神罰と言う名の体罰を、畳の網目を数えながら静かに終わるのを待つ。

男の呪詛の様に繰り返される言葉と相反するような鳥の軽やかな囀りが耳障りで仕方がない。

青年は畳から、目の前の男に視線を移す。

男は鬼のような形相で青年を見下ろしていたが、その視線に気づくと更に顔を歪めて拳を青年の頬に振り下ろした。

脳が揺さぶられる。

男は青年に“神を敬うこともできないバカ息子”と吐き捨てると部屋を出て行った。

この様子では今日の夕飯は抜かれるだろう。明日の朝まではここにいることになるはずだ。

鍵もなにもない部屋だがわざわざ抜け出そうとも思わなかった。

苛立ちや不安よりも、奴らと同じ空間を共にしなくて済むことに安堵を覚えるからだ。

口の中が切れたのか鉄臭さが広がり、吐き出したくなったがそれを堪えて飲み込む。


ああ、気分が悪い。


青年は畳の上に倒れこんだ。

あともう少しで日が沈み始めるのだろう。

西に傾き始めた陽光が部屋に飾られている絵を照らす。

田代とその家族の肖像画だ。


「何が神の加護だ。」


肖像画を睨みながら呟いた声は掠れているが、静かな部屋にはやたらよく響いた。

父親による神罰を受けるのはもう何回目か分からない。

息子だと言われるたびに、そうかこの男は実の父親だったと思い出すのだ。

幼少期の頃、まだこの家で暮らす前の父親の面影は全くと言っていいほどに残っていない。

青年は両親を親だとも思えなくなっていたのだ。


今から8年前。

青年がまだ少年だった頃、父親が借金を背負ったことがきっかけとなり、神の家で暮らすことになった。

それまで両親は神の家に入信などしていなかった。

仲の良い普通の家族だったと思う。

父親は働きに出て、母親は家のことをやり、少年は学校に通っていた。

だが、父親の仕事が上手くいかなくなった辺りから父親と母親は神の家にのめり込むように盲信するようになっていった。

やがてすべて置いて逃げるように神の家に身を寄せることになった。


初めて会った田代は穏やかな声で“ここで助け合いながら暮らしていきましょう。やがて神の加護により幸せへの道が開かれますよ”と言っていたのを覚えている。

その言葉に少年の両親は涙を流しながらお礼を口にしていたが、少年は両親が別人になってしまうのではないのかという不安に襲われ、ただ立ちすくんでいた。


神の家では大体100人前後が暮らしている。

田代と寝食を共にし、尽くすことでより良い加護が与えられるという言葉を信じてここで生活を送っているのだ。

起床時間も食事の時間も消灯時間も何をするのも全て時間が決められており、一日の行動内容も決まっている。

神の家の敷地から自由に出ることもできない。

食事内容も決まっており、修行の一環としてまともな食事は口にすることは許されない。

満足することは甘えであり、神に対する信心が足りないのだとそんな風に田代は言っていた。

そのうち、呼吸さえも何か規則が設けられるのではないのだろうか。

だが、それすらも信者たちは喜んで受け入れるのだろう。


破れば罰があり、守れば加護が与えられる。


その空間は少年にとって苦痛でしかなかったが、最初の数年は田代を神だと崇め、良い信者であろうと子供ながらに努力していたのだ。

神の家で生活する信者のうち、未成年者は大体十数名。そのほとんどが神の家で暮らしていた両親の間に産まれた子供である。

信者間で生まれた子供は神に望まれた子だとして祝福され、神の家で育てられる。

神の家の敷地から自由に出ることも許されず、教育の邪魔になると娯楽を排除されたそんな空間で大切に大切に育てられるのだ。

その子供たちはこの小さな世界しか知らずに、この家に仕える従順な信者になるために生きている。

少年の様に後から入ってくる子供は珍しかった。

その子供たちに負けぬように少年は必死だったのだ。

田代を両親のように神だと崇め、神の家での仕来りだって全て当たり前のように受け入れ、家の中で子供のために行われる講義を熱心に受けていた。

そうすれば両親は前と同じように笑って褒めてくれたのだ。

両親は少年を田代に気に入ってもらうための道具としか見ていなかったのだろうが、それだけのために少年は神の家を信じようとしていた。

時折、窓や庭から空を見るたびに外の世界が恋しくなりはしたが、両親のことを考えるとそんなことを口にするなんてできなかった。

きっとその時こそ、両親は自分の知らない人になってしまうと思ったからだ。


そんな空間で生活して3年が経った頃。

少年が庭掃除をしていると同じく掃除をしていた若い男が声をかけてきたのだ。

庭はかなり広く建物を囲うように広がってるため、近くに人はいなかった。

男は少年の傍にしゃがむと草をむしりながら、ぺらぺらと話し始める。

その様子からきっと神の家に入信して間もないのだろうと少年は思った。

少年は男の話を聞き流していたが誰かに見られたら不味いことになると思い、男の話を遮ろうとした。

だがそう思った瞬間、男は外の世界の話をし始めたのだ。

神の家で外の世界の話をするのは禁じられていたが、少年はそのことすらも忘れて夢中になってその話を聞いてしまった。

3年前までは当たり前だった話が、まるで違う世界の話しのようだった。


すぐ近くで、パタパタと鳥の羽ばたく音がした。

見上げると青い遠い空に鳥の影が見える。


良いな。

そう思った。

鳥は簡単にこの塀の向こうに行けるのにどうして自分は行けないのだろうか。

外の世界をもう一度見てみたい。

きっと叶うことはないだろうと思っていたその願いは、以外にもすぐに叶うこととなった。


それはその日から2カ月後のことだった。

神の家では年に一度、大規模な集会が行われる。

ここに住む信者だけではなく全ての信者が集い、神の家のこれからの発展を願うのだ。

その集会が今回から敷地外の会場で行われるようになった。

それまで集会は敷地内に建てられた集会所で行われていたのだが、信者の増加により集会所では収まりきらなくなったのだそうだ。

集会の日、少年は3年ぶりに外の世界を見た。

久しぶりに見た外の世界は空が広くて、神の家では見ることも聞くこともないもので溢れていて、バスの窓から食い入るように外の景色を眺めた。

本当にこんな世界に自分はいたのだろうか。


「あ・・・っ」


少年の口から小さく声が漏れる。

窓の向こうには自分とそう変わらない子供の姿があった。

両親と手を繋いで歩く子供の姿、好き勝手に遊び、大声で笑う子供たちの姿。

それを見た途端、心臓を鷲掴みにされたような感覚になって目を逸らそうとしたが逸らすことができない。

自分も両親もこの家にいなければあんな風になれたのだろうか。

外の世界の子供たちはとても楽しそうだった。

神の家の子供だって笑うことはある。

愛想よく笑っている子供が田代も周りの大人も好むからだ。

でも、あんなに楽しそうに声を上げて笑うことはない。

口角を上げて、目を細めてちそんな風に一々確認しなくても人は笑えるんだったと思い出した。

両親と笑い合わなくなってもう3年が経ったのかと少年は悲しくなった。


どうしたらまた昔のように普通の家族になれるのだろう。

どうしたらこの家から出ることができるのだろうか。

その日から少年はそんなことばかり考えるようになった。

外の世界のことを話してくれた男の様子がおかしいことにも気づかずに。


そして、あの日が訪れた。

その日、少年は大人に呼び出されて別室へと向かった。

春先にしては暖かい日で、柔らかい陽光が長い廊下を照らしている。

廊下を歩いた先にある部屋には両親の他にも数人の大人が立っており、少年は部屋の真ん中に立たされる。

重苦しい空気の中、初老の男は少年はある問いを投げかけた。


「君は外の世界の話を聞いたことがあるかい?」


ああ、あの人と話した内容が誰かの耳に入ったのかとすぐに理解できた。

少年は素直にその問いに“はい”と答えると、母親が顔を覆うのが見えた。


「なぜ注意しなかったんだ?君はずっとここにいるんだから、教えてあげるべきだろう。

確かに君よりも年上だがそんなことは関係ないんだ。君の方が田代様に尽くして長いのだから。」


そう言ってから男は“どうして注意しなかったんだい?”と、再び問いかけてくる。

外の世界は恐ろしい。人の欲で出来上がっていて、優しさなどない世界。

それと反対にここは神に守られている美しく、優しい世界。

だからこそ、そんな汚いものの話をしてはいけない。

本当にそうなのだろうか。


「外の世界が・・・」


周りの大人は少年の言葉を黙って待っていた。

窓から見える庭で小鳥が囀り、外の世界へと羽ばたいていく。

自分も鳥になれたらいいのに。


「羨ましかったんだ。」


少年の口から転げ落ちてきたのはそんな言葉だった。

今でも鮮明に覚えている。

その言葉を聞いた途端、大人たちの顔から表情がなくなったのだ。

一瞬の静寂に包まれたのち、頬に強い衝撃を受ける。

父親は倒れこんだ少年の頭を床に叩きつけ、また頬に拳を振り下ろす。

母親は父親を止めることもなく泣き崩れ、周りの大人はただただその光景を見下ろしていた。

怒鳴り散らしている父親が何を言っているのかよく分からず、抵抗せずに落ち着くのを待っていたが一向にそんな気配は感じられない。

これは死ぬかもしれない。

そんなことをぼんやりと思っていると急に父親の怒鳴り声が止んだ。息を呑む音が聞こえる。


「もうその辺りで大丈夫ですよ。」


妙に穏やかで、ゆっくりとした音が響く。

田代の声だ。

気づけば両親や周りの大人たちは膝をついて、床に押し付けるようにして頭を下げていた。


「申し訳ございません。申し訳ございません。二度とあのようなことは言わないようにと躾けますので・・・!どうか見放さないでください・・・!!」


父親と母親は必死にそう言っていた。

その言葉に田代は両親の手を取ると優しく語り掛けた。


「良いんですよ。まだ彼は子供ですから。間違いは正していけば良いんです。」


田代は不気味なほどに綺麗な微笑みを少年に向けてこう言った。


「大丈夫ですよ。いくらでも方法はありますからね。」


その言葉に涙を流しながらお礼を言っている両親の声を聞きつつ、少年は外の世界にでることを諦めるしかなかった。

きっと自分はここから逃げることはできないのだろう。

鳥になんてなれるわけがないのだ。

はくはくと小さく浅い呼吸を繰り返す。

救われたいと願う者に神の加護を与える場所。

だったらどうして今、助けてくれないのか。

穏やかな笑みを浮かべる田代の顔は、子どもながらにとてつもなく歪んで見えた。


この日、少年にとって田代は神ではなくなったのだ。


それ以降、少年は信者のフリをするようになった。

神前での作法も何もただ形を真似るだけで、そこに信心なんてものは存在していない。

少年とは反対に外の世界の話をしてくれた男は以前よりも熱心に信仰するようになっていた。

きっと彼も神罰を受けたのだろう。

信じれば、田代に尽くせば痛いことは何もないのだ。

仕方のないことなのかもしれないが、以前とは異なり作られたような笑顔を浮かべる男を見ていると少年はなんとも言えない気持ちになった。


そうしてそのまま、逃げることもできずに少年は青年になった。

青年は同じようにここで育った子供たちよりも信者としての出来が悪かった。

信じる者と書いて信者。

信じることができない人間により良い信者になれなど無理な話だ。

信者のフリをすることはできても、熱心に周りの子供たちと同じように信心し競うことなどできない。

不出来な息子のせいで肩身が狭くなった両親は事あるごとに青年に暴力を振るうようになり、青年は抵抗することさえも諦めた。

今日もそうして黙って受け入れたのだ。


ここへ来て8年。神の家は大きくなる一方だ。

田代も信者の女と結婚し娘が生まれた。

睨みつけていた肖像画にも田代の妻と娘が描かれている。

娘が生まれたのは5年前のことだ。

5歳の子供に頭を垂れ、どうかご加護をと手を伸ばす大人たちの光景はいつ見ても異様でしかない。

だが、ここではそう思う青年が異様なのだ。

きっとこの娘が田代の後を継ぎ、またその子供が後を継ぐ。

胸糞が悪い話だ。

吐き気も収まり、風に当たろうと庭に面する襖を開けると柔い橙色に染まった空と庭が広がっていた。

外の世界を断絶するような高い塀で囲まれた庭は信者によって不気味なほどに整えられている。

この時間帯は集会があるため、庭には人の気配がなく静かで、青年は誰も見ていないのをいいことに裸足のまま庭先に足を下ろした。


秋口の少し冷たい風が頬の傷に染みる。

夕空を飛んで行く鳥の姿を見える。

青年は鳥になりたかった。

ただそれは目標には成れなかった願望である。

鳥が羽ばたいていく中、高い塀の上にとまり続けている鳥がいた。

あの鳥も簡単に羽ばたいて、外に出ることができるのだろう。

だが、青年はどうしたってここから出ることなどできないのだ。

ここでしか生きていけない小さな存在なのだと分かり切っていた。

もしも鳥になれたとしても、ここは鳥籠だ。

そして、自分は飛び方を知らない鳥である。


そんなことを考えていると、がさがさと庭の茂みから音がした。

よく見ると塀の近くに人影が見える。

小さな人影だ。

それもここで暮らす信者とは異なり、随分と鮮やかな服を着ていた。

青年は吸い寄せられるようにその人影に向かって歩いていく。


「あ・・・」


その人影は青年に気が付くと小さな声を上げると、慌てて青年から距離を取ろうと木の後ろに隠れた。

おそるおそるといった感じで丸い瞳がこちらの様子をうかがっている。

人影の正体は幼い少女であった。背格好からして田代の娘と同じぐらいだろうか。


「・・・。」


青年は何て声をかけるべきか分からず、同じように少女の様子をうかがうことしか出来なかった。

薄く秋の匂いがする風が葉を撫でる音だけが聞こえる。

そんな中、先に口を開いたのは少女だった。


「お兄さんも鳥をみたかったの・・・?」


青年はその問いに何て返したらよいのか分からずただ頷く。

すると少女はなぜか木の後ろからこちらへと駆け寄ってきた。

思わず後ずさってしまった青年に、少女は笑顔でこう言った。


「わたしもね、鳥をみてたんだ。」


その屈託のない笑顔を見て青年は少女が神の家の信者ではないとそう思った。

だったら、なぜこんな所にいるのだろうか。

見回しても少女以外は誰もいない。


「・・・どうしてこんな所にいるんだ?」


優しさなど感じられないような声が出たが、少女は気にも留めずに笑顔を浮かべたままだ。


「あのね、お父さんに大切なお話があるからここで待っててねって言われたの。」


「お父さん・・・?」


「うん。わたしのお父さんはすごいんだよ。会社のしゃちょうさんなんだよ。」


支援者の娘だとそう思った。

社長と言うことは、莫大な額を寄付している支援者の娘だろうか。


「今日はね、お父さんのお仕事がお休みなんだ。それでね、一緒にここに来たの。

でもね・・・」


そこで少女は言葉を区切ると顔を伏せて小さく“誰にも言わないでね”と呟くように言った。

青年が頷くと、少女はあのねと続きを話し始める。


「お母さんには内緒なんだ。本当はね、お出かけするならお母さんも一緒がいいだけどね、お父さんがダメだって言うの。」


きっと少女はここがどんなところなのかは分かっていないのだろう。

青年はこんな場所に来るなと言いたくなったが、余計なことのように思えてそれを飲み込む。

余計なことに首を突っ込んで巻き込まれるのは避けたかったのだ。


「それにねお父さんいつもどこかに行っちゃうんだよ。だからすごくつまらないんだ。」


青年はただただ聞いているだけだったが、少女は気にせずに喋り続ける。


「でもね、お父さんいつもお仕事が忙しいからあんまり会えないの。だからつまらないけど、お父さんとお話しできるからうれしいんだ。」


良く回る口で様々なことを話す少女を見て、青年は大切に育てられてきたんだろうなと思った。

従順な信者になるために育てられた子供と、そうではない子供はここまで違うのだ。


「お兄さんはどうしてここにいるの?」


不意に少女にそう問いかけられ、青年は少し用があったんだと返した。

少女が父親からどう聞いているのかは分からないが、なるべくこの家に興味を持ってほしくなくてそんな嘘を吐いた。


「お仕事?」


「ああ。」


「じゃあ、お兄さんももうお家に帰るの?」


「・・・そうだな。」


少女の問いに当たり障りのない言葉を選んで返していく。

赤が濃くなっていく空に鳥の影が映るが、塀に止まった鳥は一向に飛ぼうとしなかった。


「あの鳥はお家に帰らないのかな?」


少女は心配そうにそうにそう言いながら、そろそろと少しだけ鳥がいる方へと近寄る。

すると鳥はバサバサと立派な翼を広げて、塀のずっと向こうへと飛んで行った。

あっという間にその姿は見えなくなった。


「羨ましい。」


5年前と同じ言葉が口をついて出た。

何も言わずに鳥が飛んで行った方向を見ていた少女がこちらを振り返る。


「お兄さんも鳥になりたいなって思うの?」


夜が近くなり、さらに冷たい風が少女の柔らかな髪を揺らした。


「なれるものならなりたいな。」


青年は少女にそう返すと、再び空を見上げる。


「でも、人は飛べないんだよ。」


人は鳥になれない。飛ぶことはできない。

ここから出るのと同じくらい無理な話だ。

できないと分かり切っている。


「そんなことないよ。」


しばらく黙っていた少女が不意に口を開いた。

再び青年の元へ駆け寄ると、少女は確かにこう言ったのだ。


「飛ぼうと思えば飛べるんだよ。」


なにを言っているんだろうと青年は思った。

幼い子供の言葉だと聞き流せばいいのにできなかったのだ。


「・・・翼がないのにどうやって飛ぶんだ?

そもそも飛び方も知らないのに」


「鳥になりたいって思ったら飛べるんだよ。」


その言葉に心を揺さぶられる。

少女の言葉におかしな希望を見出しそうになった。それをかき消すように“無理だろ”と早口で言うと、少女は青年を真っすぐ見たまま同じく早口で“できるよ”と言った。


「あのね、飛びたいと思えば飛べるの。ずっとそう思っていれば飛べるんだよ。できないって思うから飛べないんだよ。」


青年は息を呑んだ。

無理だと、ここから逃げられないとそう諦めて5年が経った。

一度も出来る、やってみせると思ったことがなかったのだ。


「そっか・・・、飛べるのか。」


少女は嬉しそうに笑顔を浮かべながらこくこくと頷いた。


「いつかね翼が生えてね、それでね」


あまりにも真っすぐにそう言う少女に青年は思わず笑ってしまう。

久しぶりに笑った気がするなと、必死に“本当なんだよ”と繰り返す少女を見ながら青年はそう思った。


ごーんと鐘の音が響く。


空はもう深い紺色をしていて、夕空はずっと遠くに行ってしまったようだ。

もう集会も終わり、信者たちが戻ってくるだろう。

きっと少女の父親も迎えに来るに違いない。


「・・・なあ」


鐘の音に少し驚いた様子に少女にそう呼びかける。


青年は鳥になりたかった。

それは目標になれなかったただの願望だ。

でも、もしかしたら簡単なことなのかもしれない。


“ここから逃げることができたら”ではなくて、“ここから逃げたい”とそう思うことができれば、きっと。


「俺も鳥みたいに飛べると思う?」


最後に少女にそう問いかける。

少女はその問いにこう答えたのだ。


「きっと大丈夫。いつか飛べるよ。」



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古いアパートの一室で男は目を覚ました。

どうやら壁に凭れたまま眠ってしまったらしい。


酷く懐かしい夢を見た。


まだ、男が神の家にいた頃の夢だ。

立ち上がろうと体を動かした瞬間、負ったばかりの傷が痛んで顔を顰めた。

何とかのろのろと立ちあがり、部屋を仕切っている襖をほんの少し開けると女が寝息をたてている。


あの時の少女はすっかり鳥籠の中の鳥になっていた。

飛び方なんて知らないと諦めているようなそんな鳥だ。


「・・・お前が飛べなくなってどうするんだよ。」


馬鹿なことをしている。

組の命令に背いて、そんな昔の自分のような女の面倒を見ていることに男は笑うしかなかった。

田代綾乃を不注意から逃してしまった。そう上に報告してよく生きながらえているものだ。

変なところで運が良いと男は苦笑した。

どうしてこんなことをしているのだろうか。

女の父親を殺したことへの罪悪感か、神の家に巻き込まれたことへの同情か、それとも恩返しなのか。

最初はそのどれもが混ざったような感情だったが、今はもう分からなくなってしまった。

父親を殺した男にどうして絆されているんだろうかと思ったが、それは男にも言えたことなのかもしれない。


だが、そんな生活も終いだ。

飛べないと思い込んでいる鳥をようやく外に出す日が来た。

自分はもう堕ちるしかない。

それでも一度は飛べたのだ。


「鳥みたいに飛べるって思えば飛べるんだろ。

どこまでも遠くに。」



男の声の向こう側で鳥の羽ばたく音がした。

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