まだ見ぬ花を戀しく思い 遠くの春を愛おしむ

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都々逸に関して

この作品の中には都々逸(どどいつ)と呼ばれる定形詩がでてきます。

もう既にどういったものなのか知っている方もいらっしゃるとは思うのですが、ここでも一応説明させていただきます。

都々逸は江戸末期に初代の都々逸坊扇歌によって形がつくられ、明治時代にかけて主に庶民の間で流行した唄のことです。

寄席で三味線を弾きながら歌われる俗曲であったため、歌いやすいように七・七・七・五の音数律でつくられています。(例外もある)。

明治時代になると俗曲ということだけではなく、文芸としてでも親しまれてきました。

今回の台本では文芸としての形で取り扱っているので、唄う必要はありません。

有名なものだと、「ザンギリ頭をたたいてみれば文明開化の音がする」「三千世界の鴉を殺しぬしと朝寝がしてみたい」「立てば芍薬 坐れば牡丹 歩く姿は百合の花」などが挙げられます。



庶民が詠んだとされる詠み人知らずの都々逸も多く残っており、愛されていた娯楽の一つだったと言えるでしょう。

作るうえでの細かいルールなどはここでは省きますが、とても楽しい洒落っ気たっぷりの言葉遊びでもあるので、興味のある方はご自身で考えてみても楽しいと思います。


今回は自作のものが二つと、お借りした者が二つあります。

・諦めましたよどう諦めた 諦めきれぬと諦めた(初代都々逸坊扇歌)

・二世も三世も添おうと言わぬ この世で添えさえすればいい(詠み人知らず)


また、どこかで都々逸を取り扱った作品を書きたいなと思っています。

台本固有の注意事項

・この話は明治が45年で終わらず、46年を迎えており、さらに政府が厳しく取り締まっていたらという架空の世界の話です。

・90~120分の台本になります。90分で演じ終わる方々もいらっしゃるのですが、いまのところ110分から120分で演じ終わっている場合が多いです。

登場人物

・はる(♀)

 實に戀をしている女学生。

・實/みのる(♂)

 20代後半~30代前半。作家。

・紅緒/べにお(♀)

 20代後半~30代前半。實の昔馴染みで、人気の恋愛小説作家。

・太一(♂)

 10代後半。實の弟子として身の回りの世話をしている。

『まだ見ぬ花を戀しく思い 遠くの春を愛おしむ』

作者:なずな

URL:https://nazuna-piyopiyo.amebaownd.com/pages/7624205/page_202402022152

はる(♀):

實(♂):

紅緒(♀):

太一(♂):

本文

(寒空の下、走るはる。ある家の門をくぐる)


はる:「(走っている)」


太一:「あ、お前……!!また来たのかよ」


はる:「太一さん、こんにちは……っ!!」


太一:「こんにちはって……、お前、ここがどこだか」


はる:「實さんは? 今日もお庭にいらっしゃるの……っ?」


太一:「え、ああ」


はる:「分かったわ……っ」


太一:「あ、おい!!」

 

(走って庭に回り込むはる)


はる:「(走っている)」


實:「そんなに急いでどうしたんだ?」


はる:「……っ!!」


實:「ははっ、驚かせてしまったか。すまないね。賑やかだったから様子を見に行こうと思ってたんだ」


はる:「み、實さん……。ごめんなさい。騒がしかったですよね」


實:「や、謝ることはないさ。そんなことよりも、君の目当てはあれだろう? もっと近くで見たらいい」


はる:「ありがとうございます……」


實:「そんなに急いで来るとは……。君は余程、花が好きなんだな」


はる:「はい……」 


實:「残念ながらまだまだ咲きそうにないぞ。蕾もつけていない梅の木を見ていてもつまらないだろう?」


はる:「いえ、いつか咲く花を楽しみに待っている時間が楽しいからいいんです」


實:「なかなか粋なことを言うな」


はる:「ふふっ」


實:「……」


はる:「……」


實:「……今日も女學校の帰りか」


はる:「はい」 


實:「毎度言ってはいるが、そんな様子じゃいつか転ぶぞ。急ぐ必要もないのだから歩いてくればいい」


はる:「大丈夫です。走りやすいんですよ、袴って。お父様や先生方に見つかったら、はしたないと怒られてしまうのでしょうけれど」


實:「そうだろうな」


はる:「それに……、私がはやくここに来たかったんです」


實:「……」


(家の中から障子を開けて太一がでてくる)

 

太一:「先生!!」


實:「ああ、太一。どうした?」


太一:「どうしたもこうしたもありませんよ! どうして、そう簡単に他所の人間を入れるんですか!?」


實:「おれが勝手に入っていいと言ったんだよ」


太一:「だから、どうしてそんなことを言ったのかと聞いているんです!」 


實:「そう言うな。猫だってよく入ってくるだろう?」


太一:「猫と人は違うんですよ!」


實:「お前は素直じゃねえなあ。その盆にのってんのはなんだ?」


太一:「こ、これは」


實:「口ではそう言いつつ、この子の茶まで淹れてるじゃねえか」


はる:「ありがとう、太一さん」


太一:「う、煩いな。好きで淹れているわけじゃないからな。仕方なくだからな。

どうしてこうもお前といい、あの人といい、勝手なことを」 


紅緒:「あら、あの人ってあたしのこと?」


太一:「げっ」


紅緒:「戸が物騒なことにすんなりと開いたものだから、勝手に入らせてもらったわ」

 

實:「紅緒か。忙しそうだな、人気作家さまは」

 

紅緒:「ええ、本当に。昨日まで東京にいて今帰ってきたところなの。てんてこ舞いよ。猫の手も借りたいぐらいだわ」


はる:「紅緒さん、お久しぶりです……!!」

 

紅緒:「久しぶりね、はるちゃん」


はる:「あ、あの、紅緒さんの新しい小説、拝読しました」


紅緒:「ああ、雑誌のね」


はる:「はい! 今回のお話もすごく素敵で……!! あの二人が結ばれるかどうか、先が気になって仕方がありません」


紅緒:「あら、本当? 嬉しいわ。ありがとうね」


實:「で、なんの用だ?」


紅緒:「ああ、あんたに少し話があるの」


實:「そうか。なら場所を移そう」


はる:「だったら私はもうお暇いたします」


紅緒:「あら、まだいたらいいじゃない。あとではるちゃんともお話したいわ」


太一:「誰の家だと思って……」


紅緒:「なにか言ったかしら?」


太一:「別になにも」


實:「ほら、いくぞ」


紅緒:「ええ。じゃあ、またあとでね」


(部屋を出て行く實と紅緒)

 

太一:「ったく……」


はる:「ねぇねぇ」


太一:「な、なんだよ」


はる:「あの……、紅緒さんと實さんってその……」


太一:「違うぞ」


はる:「へ?」


太一:「断じて違うぞ」


はる:「まだ何も言っていないじゃない」


太一:「どうせ好き合っているのかとか、そんな下世話なことを聞くつもりだったんだろ?」


はる:「合ってはいるけれど……。でも、そ、そうなのね。そういうわけではないのね」


太一:「今更だな。そんなことぐらい見ていたら分かるだろ」


はる:「分からないわよ、そんなこと。

紅緒さん、すごく綺麗な方だもの。きっと男の方ならころっと好きになってしまうに決まっているわ」


太一:「なんだ、それ」


はる:「本当に違うのよね?」


太一:「しつこいぞ。旧知の仲ってだけで、そこに色恋なんてものは存在していない」


はる:「旧知の仲……」


太一:「故郷が同じなんだと」


はる:「……羨ましいわ」


太一:「なにがだ?」


はる:「紅緒さんも太一さんも羨ましい。だって、ずっと昔からお知り合いなのでしょう? 實さんのいろんなことを知っているのでしょう?」


太一:「お前と比べたらそうだろうな。なんせ僕は二年も前から先生の弟子として身の回りの世話をしているんだ」


はる:「……私は何にも知らないわ。紅緒さんと一緒で作家の先生ってことぐらいしか……。どんなものをお書きになっているのかも知らないのよ」


太一:「お前には理解できない話だから知る必要はない。

それに、そんなこと言ったところでどうしようもないだろ」


はる:「故郷はどちらなのかしら」


太一:「さあな」


はる:「何の話をされているのかしら」


太一:「そんなに気になるのなら、後で聞けばいいだろ」


はる:「で、でも、そんなにいろんなことを聞いたら嫌われないかしら? 下品な女だと思われない?」


太一:「何を今更……。こうして他人の家に毎日のように足を運んでは入り浸っているくせに。もう少し、先生の貴重なお時間をいただいているってことをだな……」


はる:「ごめんなさい……。そうよね、お忙しいわよね」


太一:「ま、まあ、先生が良いって仰っているんだ。今のところは大丈夫なんじゃないか」


はる:「そうだといいのだけれど……」


太一:「僕は迷惑しているんだけどな。

……お前がなにかと顔を出すようになったのが五月の初旬。今はもう一月の下旬だぞ。よくもまあ飽きないもんだな」


はる:「飽きないわ。だって私、實さんに戀をしているんだもの」


太一:「戀、ね」

  

はる:「ええ」


太一:「ならとっとと思いを告げて、盛大に突き放されたほうが良いと思うね。僕は」


はる:「想いを告げるだなんてそんな……。なんてお伝えしたらいいのか分からないわ」


太一:「そんなのあなたをお慕いしていますと何とでも言えばいいだろ。それとも歌でも詠むか? 和歌は無理だろうけど、都々逸(どどいつ)なら出来はともかくいけるかもしれないぞ」


はる:「そんな……。もっと難しいわ」


太一:「そもそも、紅緒さんの小説を読んでいるのならそんな言葉すんなり出てくるんじゃないのか?」


はる:「読むのと言うのとでは違うわ。それにお話の中の女の子はみんな素敵なのよ」


太一:「何言っているんだか……。そうやって言い訳を捏ねたところで何も変わらないぞ」


はる:「それは分かっているけれど……。

ねえ、どうしたら實さんに好いてもらえるかしら」

 

太一:「……お前、良いとこの娘なんだろ」


はる:「え?」


太一:「例えばだ。こんなことはあり得ない話だが、もしもだ。もしも万が一、先生とお前が相思いになったらどうするんだ?」


はる:「あ、相思い……」


太一:「好いてもらうってことはそういうことだろ」


はる:「や、やだ。そうしたらどうしましょう……っ」


太一:「どうしましょうって……。考えたことぐらいはあるだろう?」


はる:「か、考えたことはあるけれど、いつも死んでしまいそうになるのよ」


太一:「死んでしまいそうなほどに嬉しいのは分かったが、その後は?」


はる:「そのあと?」

 

太一:「お前みたいなやつは家が全部決めるだろ? 結婚相手もそうだ。お前が先生と結婚したいと言ったところで許可が下りるとは思えない」


はる:「そうしたら家が決めた方と結婚するしかないわ」


太一:「は?」


はる:「お父様たちに決められたら、諦めるしかないもの」


太一:「諦めるって……」


はる:「だからせめて、それまでの素敵な思い出にしたいの」


太一:「……」


はる:「私ね、ずっと戀をしてみたかったの。だから、戀をすることができて嬉しいのよ」


太一:「なんだか、戀をしたくて好いたのか、好いたから戀をしたのか。分からなくなる話だな」


はる:「え?」


太一:「あ、しまった」


はる:「どうされたの?」


太一:「先生たちに茶を持って行くの忘れていた。淹れてくるか」


はる:「なにかお手伝いしましょうか?」


太一:「いや、良い。

それよりもお前、僕がいなくなった途端に歩き回ったりするなよ。大人しく庭でも眺めてろ」


はる:「ええ……、分かったわ」


太一:「ああ、そうだ。どうしたら先生に好いてもらえるかって言っていたが、お前みたいな幼稚な人間には無理だと思うぞ」


はる:「へ……?」


太一:「”諦めましたよどう諦めた 諦め切れぬと諦めた”」


はる:「都々逸……? それがどうされたの?」


太一:「さあな。お前には一生分からないだろうよ」


(部屋へと姿を消す太一)


はる:「行ってしまったわ……。なによ……、そう歳も離れていないのに人を子供扱いして。

……大人になれば、好いてもらえるのかしら」

 


====================


 

(書斎で話す實と紅緒)

  

紅緒:「あらまあ、相変わらず散らかった部屋ねぇ」


實:「太一が片付けてはいるんだけどな。ほら、そこに座ってくれ」


紅緒:「……可愛い子よね」


實:「なにがだ?」


紅緒:「はるちゃん」


實:「ああ……、面白い娘だよ。まだ蕾すらねえ梅を見に来るんだから」


紅緒:「それだけじゃないでしょうに。

ねえ、どんな気分なの? あんな若い子に戀心を寄せられるっていうのは」


實:「何も思わねえよ。あの子はまだ若い。

戀に戀をするような年頃の娘に一々気を乱してちゃ疲れるだけだろ」


紅緒:「色戀に疎いあんたがよく言うわ。

じゃあ、あんたはあの子の思いにはなにも返さないつもりなのね?」

 

實:「ああ」


紅緒:「やな男。だったらどうして敷地内に入ることを許したのよ」


實:「猫」


紅緒:「猫と人は違うのよ」


實:「なんだ、聞いていたのか」


紅緒:「……」


實:「……あまりにも庭先の木を熱心に見ていたから、近くで見せてやろうと思っただけだ」

 

紅緒:「随分と親切な人なのねぇ」


實:「ああ、今更知ったのか」


紅緒:「さらにやな男」 


實:「そりゃ悪かったな。

それよりもお前、そんな話をするためにここに来たのか?」


紅緒:「違うわよ」


實:「じゃあ、なんだ?」


紅緒:「……始まったわ」


實:「……そうか」


紅緒:「驚かないのね」


實:「そりゃ、あの事件から二年経って、今はもう明治四十六年だ。いつ始まってもおかしくねえとは思ってたからな」


紅緒:「……」


實:「天皇陛下の暗殺を企てたとして、大逆罪により檜山勇巳(ひやまいさみ)と他十五名が処刑……。

どんだけ経っても、あの日のことは鮮明に覚えてるだろうよ」


紅緒:「やっぱり、こっちに来て正解だったわね。この家も目につきにくいでしょうし」


實:「だが、ここも時間の問題だろ。ここには新聞社もある。それも、政府に真っ向から喧嘩を売るような」


紅緒:「そうねぇ……。向こうでも一夜の内に十二人ほど連れて行かれたみたいだから」


實:「お前は大丈夫なのか?」


紅緒:「あたしは大丈夫よ」


實:「……」


紅緒:「二年……。あの人が死んでからもうそんなに経ったのね」


(戸を叩く音)

 

太一:「お取込み中すいません」


實:「入って良いぞ」


太一:「失礼します。お茶をお持ちしたのですが」


實:「ああ、もう話は済んだ」


太一:「え? あ、そうなんですか?」


紅緒:「ちょうど良かったわ。あたし、あんたとも話をしたいと思っていたの」


太一:「僕は思ってないです」


實:「じゃあ、その茶は太一が飲んでくれ。おれは戻る」


(部屋を出て行く實)

 

太一:「あ、ちょっと先生……!」


紅緒:「やだやだ、本当に素直じゃないんだから。

あら、美味しいわ。このお茶」


太一:「……どうも。それで、話ってなんですか?」


紅緒:「始まったのよ」


太一:「始まったって……。二年前の?」


紅緒:「ええ」


太一:「……そうですか」


紅緒:「あんたも驚かないのね。實に似てしまったのかしら。昔はもっと可愛げがあったのに」


太一:「いつか来るとは思っていたので。二年前よりも悲惨なことになりそうですね」


紅緒:「そうね……」


太一:「……先生は何か仰っていましたか?」


紅緒:「なにも。

どうするつもりなのかしらね。勝手に一人で背負い込んで、おろさないんだもの。誰も頼んでいやしないのに。

まあ、……あたしだってそうなんでしょうけど」


太一:「……」


紅緒:「……太一」


太一:「なんですか?」


紅緒:「あの人こと、頼むわね」


太一:「もう二年も先生のお傍にいるんです。言われなくともそうしますよ」


紅緒:「もうそんなに経つと思うと嫌だわ。そりゃ、あんたの愛嬌もなくなるわけね」


太一:「すいませんね。それで、話ってもう終わりですか? なら戻りますよ」


紅緒:「駄目よ。もう少しここにいて」


太一:「まだなにか?」


紅緒:「あたしはね、戀をしている乙女の味方なの」


太一:「はあ……。あれは先生への憧れを勝手に戀と呼称しているだけの子供ですよ」


紅緒:「子供って……、あんたもはるちゃんもそう変わらないじゃない」


太一:「歳の話をしているわけではなくて、内面の話です」


紅緒:「まあ、確かに憧れはあるでしょうね。男と話すことなんて滅多にないでしょうから。でも、それをあの子が戀と呼ぶのなら戀なのよ」


太一:「僕には分かりかねますね。

……嫌なんですよ。生半可な気持ちで先生の邪魔をされるのが」


紅緒:「戀なんて最初は誰しも未熟だわ。その小さな芽がやがて蕾となり、ゆっくりと花開いていくから良いんじゃない。

それに……、あたしは邪魔して欲しいとさえ思うわ」

 

太一:「……」


紅緒:「とにかく、あたしはどれだけ未熟だろうが、戀する乙女の味方なの。

だから、ね? もう少し、二人でいさせてあげましょ」


太一:「(溜息を吐く)

……分かりましたよ」



====================



(縁側で腰かけているはる)  


はる:「……」

 

實:「よく飽きずに見てられるな」


はる:「あ……、實さん。お話はもう終わったんですか?」


實:「ああ」


はる:「……」


實:「……」


はる:「あ、あの」


實:「なんだ?」


はる:「その……、どんなお話をされていたんですか?」


實:「どんな話……」


はる:「あ、お嫌でしたら大丈夫です……! ただ、太一さんが實さんと紅緒さんは同郷だと教えてくださって。それで故郷のお話をされていたのかなと」


實:「おれの故郷の話が聞きたかったのか?」


はる:「あ……、いや……」


實:「違うのか?」


はる:「え、えっと……」


實:「……おれの故郷は田舎でな」


はる:「え?」


實:「いろんな動物を見かけたな。熊もよく見かけたぞ」


はる:「熊……」


實:「そういや、河童もいたな」


はる:「えっ?」


實:「相撲もとったなぁ」


はる:「相撲ですか……?」


實:「ああ、勝ったぞ。紅緒が」


はる:「紅緒さんが……?!」


實:「ふ…っ、ははは…っ (堪えきれず笑いはじめる)」


はる:「實さん……?」


實:「嘘だよ。故郷で河童なんて見たことがない」


はる:「へ?」  


實:「すまないな。君の反応が面白かったものだから」


はる:「そんなにもおかしかったでしょうか…?」


實:「いや、悪い意味じゃないさ。

河童はいなかったが、田舎なのは本当だよ。それと、紅緒の腕っぷしが強かったのもな」


はる:「そうなんですか……?」


實:「ああ。なんてったって名前が熊子だからな」


はる:「熊子?」


實:「今はどこでも紅緒と名乗っているが、紅緒は作家としての名前で、本名は熊子なんだ。良い名だと思うが、本人は気に入っていないみたいでね」


はる:「そうですか……。

でも、紅緒という名前がしっくりきます。すごくお似合いだから」


實:「紅緒にもそう言ってやったら喜ぶぞ。ああ、でも熊子という名前を出すのであればおれからではなく、太一から聞いたことにしてくれ」


はる:「どうしてですか?」


實:「そりゃ、怒られるからに決まっているだろ」


はる:「ふふっ、悪い人ですね」


實:「……そうだな」


はる:「……」


實:「……」


はる:「この梅の木はいつになったら蕾をつけるんでしょう」

 

實:「さあなあ。ここに越してきたときにはもう咲き終わっていたから、どのくらいで咲いたかも分からないしな」

 

はる:「じゃあ、實さんもこの梅の花は見たことがないんですね」


實:「ああ」

 

はる:「まだまだ咲くのは先なんでしょうか?」


實:「咲くまでは退屈だろうし、君のためにも早く咲いてほしいものだけどね」


はる:「私は遅くてもいいです。ゆっくりと待っていますから」


實:「……そうかい」



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(数日後)

 

はる:「(走っている)」


(庭に回り込む) 


はる:「あ、あら……? お庭にいらっしゃらないわ」 


紅緒:「はるちゃん」


はる:「……!」


紅緒:「ふふっ、そろそろ来る頃だって實から聞いていたから待っていたのよ」


はる:「紅緒さん……!こんにちは!」


紅緒:「こんにちは。ごめんなさいね。實じゃなくて。實と太一もいるのだけど、少し立て込んでいてね」


はる:「そ、そんな……。紅緒さんとお会いできてうれしいです」


紅緒:「そう? なら良かった。ほら、縁側に座ってちょうだい。この前はゆっくりお話しできなくてごめんなさいね。あたしったらすっかり予定を忘れていて」


はる:「いえ、お気になさらないでください」


紅緒:「ありがとうね。新しく書いた小説の感想もお聞きしたかったのよ」


はる :「すごく素敵でした。読みながらうっとりしてしまって。これからどうなるんだろうって友人とも色々お話したんです。こっそりと聞かれないように」


紅緒:「こっそり?」


はる:「私にはよく分からないんですけれど、読んでいい本と読んではいけないものがあるらしくて。取り上げられてしまったら嫌だから、見つからないようにしているんです」


紅緒:「……」


はる:「……紅緒さん?」


紅緒:「え? ああ……、なんでもないわ。 あらやだ。お茶、冷めてるわ。待っててちょうだいね、淹れ直してくるから」


はる:「いえ、大丈夫です。走ってきたからぬるい方が助かります」


紅緒:「そう? ならどうぞ」


はる:「ありがとうございます」


紅緒:「はやる気持ちが抑えきれなくて走ってしまうほどに、實のことが好きなのねぇ」


はる:「……っ!! 

(むせる)」


紅緒:「あらあら、大丈夫?」


はる:「は、はい……」


紅緒:「真っ赤になってしまって可愛いらしいこと。良いわねぇ。はるちゃんは實に戀をしているのね」


はる:「戀……?」


紅緒:「ええ」


はる:「そう、です。戀をしているんです。

……ふふっ」


紅緒:「どうしたの?」


はる:「なんだか胸がこそばゆくて。私ったら本当に戀をしているんだわって」


紅緒:「随分と幸せそうに笑うのね」


はる:「幸せですもの。心が浮ついて。景色が綺麗に見えて。まるで、戀物語の主人公になったようだわだなんて」

 

紅緒:「分かるわよ。全て運命のように思えてならないのよね」


はる:「そうなんです……!」


紅緒:「それで好いた人が特別、かっこよくみえるのよね」


はる:「ふふっ、ええ。本当に一等素敵にみえます。

……實さんの目にもそんな風に映っていたらいいのに」


紅緒:「あら、もしかしたらもう映っているかもしれないわよ」


はる:「それはないと思います。

私、世の中のこともあまり知らなくて、幼稚で……、それで……」


紅緒:「はるちゃん……?」


はる:「その……、どうしたら紅緒さんみたいに綺麗で素敵な大人の女性になれるのでしょうか?」


紅緒:「え?」


はる:「今度お会いできたらお聞きしたいと思っていたんです。戀をすることができただけでも十分幸せだけど、どうせなら好いてほしいもの。短い間だけでも。

……我儘なのでしょうけれど」


紅緒:「好いてほしいと思うことは我儘ではないわ。当たり前のことよ。

でも……そうね。無理に大人になろうとしなくていいんじゃないかしら」


はる:「どうしてですか……?」


紅緒:「少女と呼べる時期はね特別なの」


はる:「とくべつ?」


紅緒:「ええ。特別。

子供は世の中を知らず、大人の言うことを聞くしかない。

大人は世の中のことを知りすぎてしまって、簡単に諦めがついてしまう。

でも、少女と呼べる時期は、そのどちらでもないの。

いちばん、自分らしくいられる時期だとも思うし、その中で抱いた戀はきっと特別なものだと思うわ」


はる:「……」


紅緒:「難しいわよね。でも、いつか分かるわ。いやでもいずれは大人になるのだから」


はる:「紅緒さんも少女だった時に戀をしていたんですか?」


紅緒:「ええ。今もしてるわよ」


はる:「今も?」


紅緒:「あ、勘違いしないでちょうだいね。實じゃないわよ」


はる:「は、はい」


紅緒:「ずっと戀をしているのよ、あたし。恋愛小説作家だもの。いつだって戀心は忘れずに持っていたいの」


はる:「……」


紅緒:「さて、もうそろそろ行かないと。原稿を持って行かないといけないのよ」


はる:「でしたら、そこまでお見送りいたします」


紅緒:「いいのよ、そんな。ここから見送って頂戴」


はる:「で、でも」


紅緒:「ふふっ、気持ちだけ受け取っておくわ」


はる:「……分かりました。

あ、あの、最後にもう一つだけ、お伝えしたかったことがあって」


紅緒:「なにかしら?」


はる:「紅緒さんのお名前、とても綺麗だなと……。美しい響きだと思いますし、紅緒さんにとてもお似合いだから」


紅緒:「ふふっ、なんだか口説かれているみたいね」


はる:「え、あ……っ」


紅緒:「ありがとうね、あたしも気に入っているの。なんたって、好いた人がつけてくれたようなものだから。

……”惚れた弱みにゃ あなたが今も あたしに変わらず 紅を差す”」 


はる:「え?」


紅緒:「ふふっ、なんでもないわ。じゃあ、もう行くわね」 


はる:「はい……! お気をつけて」


(去っていく紅緒)


はる:「……紅緒さん、お忙しそうだわ。作家さんって大変なのね。

實さんも大変なのかしら。

……もう少し待っても来なかったら帰りましょう」



====================


   

太一:「先生、どうですか?」


實:「もう終わる」


太一:「なら間に合いそうですね」


實:「ああ。良かったよ。これで遅れてたら、高野さんになにを言われるか分かったもんじゃねえからなあ」


太一:「だとしても、もう少し余裕を持ってほしいものですけどね。高野さんも新聞社の社主として大変なんですから。

そもそも、先生はあいつに構いすぎなんですよ」


實:「あいつ?」


太一:「あの喧(やかま)しい小娘のことです」


實:「ああ……。ははっ、小娘ってお前もそんなに変わらねえだろうに」


太一:「先生もあの人と同じことを仰るんですね」


實:「紅緒にもそう言われたのか」


太一:「あの小娘に庭の木を見せるのはいいです。もう諦めていますしね、僕も。

でも、先生がわざわざ時間を割いて付き合うことはないと思います。勝手に見せとけばいいんですよ。それが心配なら僕があいつを見張ります。まあ、あんな小娘がなにか悪さをするとは考えられませんけど」


實:「まあまあ、そう言うな」


太一:「先生はあの小娘に惚れているんですか?」


實:「唐突だな」


太一:「どうなんです?」


實:「……二年前のあの日、おれは多くの友人を亡くした」


太一:「……」


實:「国はどんどんとおかしくなってく。国民から行動の自由も、思考の自由も全て奪い去ろうとしている。

それをあいつらは止めようと奔走してたんだ。生き延びたおれは死んでいったやつらのためにもやり遂げなくちゃいけない」


太一:「先生……」


實:「……ま、つまりそういったことに現を抜かしてる場合じゃねえってことだ。

だが……、そうだな。あの子と話すのは良い気分転換になる。だから、お前が見張る必要はない」


太一:「……そうですか。分かりました」


實:「ほら、できたぞ」


太一:「これはいつも通り、新聞社に持って行けばいいんですか?」


實:「ああ。悪いが急ぎで頼む」


太一:「なら、今から行ってきます」


實:「そうか。悪いな」


太一:「そう思うなら、もう少しはやく原稿を上げてくださいね」


實:「ははっ、耳が痛いなあ。そういや、紅緒は帰ったのか?」


太一:「用があると言っていたので、もう帰ったと思いますよ」


實:「あの子もさすがに帰ったか」


太一:「いつもなら、もう帰っている時間ですしね。

なんなら紅緒さんと一緒に帰ったんじゃないですかね」


實:「……そうだな」


太一:「じゃあ、行ってきます」


實:「ああ」


 (部屋をでる太一)



====================


 

太一:「……まあ、一応確認はしておくか。

……よし、縁側にはいない。庭にも……」


はる:「太一さん!!」


太一:「っ!」


はる:「あ……っ」


太一:「お前、急に大きな声を出すなよ……!! 驚いただろ! ああ、もう……、原稿を落としてしまったじゃないか」


はる:「ご、ごめんなさい」


太一:「まったく……」

 

はる:「……」


太一:「よいしょっと……。あとは……」


はる:「……ひ、やま?」


太一:「……っ」

 

はる:「ねえ、太一さんこれ」


太一:「勝手に読むな!!」


(はるの手から原稿を取る)


はる:「あっ」


太一:「……」


はる:「ごめんなさい……。で、でも、そこしか読めなかったから」


太一:「……」


はる:「……本当にごめんなさい」


太一:「(ため息をつく)別にもういい。

……それで、どうしてまだいるんだ? いつもならもう帰っている時間だろ。暗くなる前にはやく帰れよ」


はる:「あと少し、あと少しって待っていたら、いつの間にかこんな時間になってしまったの」


(實が姿を現す)

 

實:「……ああ、まだいたのか」


はる:「あ……っ」


太一:「先生……、ああ、もう……。僕はもう行きますからね」


實:「気を付けてな」


太一:「お前もとっとと帰れよ」


はる:「え、ええ……」


(走り去る太一)


はる:「……太一さんって、足がお速いんですね」


實:「おれが急ぎの面倒ごとばかり押し付けてるからな」


はる:「ふふっ」


實:「だが、太一の言う通りだ。暗くなる前に帰った方がいい。それに、長い間、寒空の下にいたら風邪をひいてしまうだろう」


はる:「そうですよね。ごめんなさい……」


實:「また、明日おいで」


はる:「へ?」


實:「おれも執筆ばかりで疲れてしまってね。話し相手になってくれたら助かる」


はる:「……っ」

 

實:「言わなくとも、君は女學校のある日にはここに足を運んでくれるだろうが……。 どうだ?」


はる:「は、はい……! 喜んで……!」


實:「そうか。なら、もう今日は帰ったほうがいい」


はる:「分かりました!今日はここで失礼しますね……! また明日、お伺いします……!」


實:「ああ、気を付けて帰るんだよ」


(遠ざかっていくはるを見送る實)


實:「(ため息をつく)

おれは一体、なにを言ってんだろうな……。

……まったくどうしたもんか。儘ならねえもんだ」

 

 

====================


 

(走りながら帰ってきた太一)

 

太一:「(走ってる)」


(玄関をあけて、部屋まで入る)

 

太一:「先生……っ!!」


紅緒:「太一、おかえりなさい。邪魔してるわよ」


太一:「(乱れた呼吸を落ち着ける太一)」


紅緒:「どうしたのよ、そんなに急いで」


太一:「連れて行かれたんです……っ」


紅緒:「え?」


太一:「高野さんが……、 高野さんが警察に捕まったんです……!!」


紅緒:「高野って……、自由革新新聞の社主よね」


太一:「はい……」


紅緒:「そう……。だと思ったわ」


太一:「知っていたんですか……?」


紅緒:「いいえ。でも、東京の方でも新聞社の人間が捕まったみたいだと聞いたから」


太一:「先生は?」


紅緒:「寝てるわよ。どうせ締め切り間近になって夜明かしして書き上げたんでしょう?」


太一:「話はしたんですか?」


紅緒:「ええ。だから、高野さんが捕まったこともあまり驚かないと思うわ。

……思っていたよりも、時間がないみたいね。

新聞社は今後どうするって?」


太一:「場所を移して続けるそうです。どこかは追って報せると」


紅緒:「そう。ちょうどいい場所があればいいわね」


太一:「そんなところあるんでしょうか?」


紅緒:「場所自体は提供してもらえるんじゃないかしら。ツテも多いでしょうし。

案外、こちら側を応援してくれる人は多いのよ。ただ、矢面に立ちたくないだけで。

そう言う意味ではあたしも同じね」


太一:「……」


紅緒:「政府への不満を書きつらねて、国民の意見を尊重する新聞はあの事件からかなり減ったわ」

 

太一:「今はもう、政府の書いてほしいことをそのまま記事にしているものばかりですからね。

……おかしな話だ。それじゃあ、国は衰退していくばかりだろうに」


紅緒:「太一 ……」


太一:「だからこそ、先生のようにこの国の行く末を案じ、恐怖にも負けずに強い信念を持って活動している人を僕は尊敬しています」


紅緒:「……それはどうかしらね」


太一:「どういう意味ですか?」


紅緒:「實はこの国の行く末を案じているわけではないと思うわよ。ただ、罪滅ぼしでやっているだけで」


太一:「さすがに聞き捨てなりません。先生は素晴らしいお方です。先生の書く話は読者に力を与えているんです。

自由も何もかも奪う政府に対し、国民が力を合わせて国家転覆をはかる。その自由を掴むため頑張る姿に勇気づけられたと」


紅緒:「だったら、どうして檜山勇巳の名で書いているのかしら」


太一:「それは」


紅緒:「その話だって、元々はあの人が書いていたものなのよ。それに實はね、読みはしても書きはしなかった。手伝いで添削することぐらいはあったでしょうけれど。

文章を書くことは苦手だとも言っていたわ。

……ぜんぶ、二年前までの話だけど」


太一:「……っ」


紅緒:「實が自分で何かを書き始めたのは、檜山勇巳が死んでからよ」


太一:「……そうだとしても、先生が国のために動いているのは事実です。紅緒さんがどう思おうが僕はそう思っていますから」


紅緒:「(ため息をつく)

師弟揃って頑固ね。まあ、いいわ。あたしも言い過ぎたわね。ごめんなさい」


太一:「別に謝ることはないですけど……」


紅緒:「そんなことよりも、實がはやくここから移りたいって言っていたの。あたしもそうした方がいいと思うわ。

あちらからすれば、實なんて捕まえたくて仕方がない人物でしょうし」


太一:「移ると言ってもどこに?」


紅緒:「それはまたあたしが何とかするわ。

……太一も気を付けなさいね。

あんたは新聞社の人間ではないけれど、實や新聞社との接点があると知れたら、どうなるかは分かるでしょう?」


太一:「その辺りは気を付けていますから大丈夫です。

……紅緒さんは大丈夫なんですか?」 


紅緒:「あたしは平気よ。實みたいに政府に真っ向から喧嘩売るようなものなんて書いてないもの。

それに、二年前みたいに蚊帳の外にいるよりはずっといいわ」


太一:「……そうですか」


紅緒:「蚊帳の外といえば、はるちゃんは何も知らないのよね」


太一:「当たり前じゃないですか。教える必要もありません」


紅緒:「だけど、このまま別れてしまうのは辛いわ。どうにかしてあげたいんだけど……」


太一:「余計なことしないでくださいね。もう時間がないんですから。それこそあの小娘に割く時間なんて先生にはありません」


紅緒:「あの子に何も言わずに姿を消すつもり?」


太一:「どうせすぐ忘れますよ。あいつにとってはただの思い出づくりみたいなものなんですから」


紅緒:「それはどうかしら。どちらにしろ、あたしたちが決めることじゃないわ。

二人で決めるべきことよ」

 


====================



 (縁側で實を待つはる)


はる:「……”惚れた弱みにゃ あなたが今も あたしに変わらず 紅を差す”」


實:「なんだ、都々逸か?」


はる:「あ、實さん……! こんにちは」

 

實:「ああ、こんにちは。雪の中、そんなところに立っていたら風邪をひくぞ。屋根の下から見たほうが良い」


はる:「ごめんなさい」 


實:「それで、その都々逸は?」


はる:「紅緒さんが仰っていたんです」


實:「ああ、なるほど。あれは紅緒が詠んだもんか」


はる:「私もいま都々逸を考えてみたんですけれど、なにも思い浮かばなくて」


實:「ああいったものには、得手不得手があるからなあ」


はる:「實さんは?」


實:「おれは大の苦手だ。考えてるとだんだん、体がむず痒くて仕方がなくなる」


はる:「ふふっ。でも、お聞きしてみたいです」


實:「碌なもんじゃないぞ」


はる:「そうなんですか?」


實:「ああ」


はる:「……」


實:「……」


はる:「雪、久しぶりに降りましたね」


實:「……君とはじめて会ったときはまだ新緑の眩しい頃だったな」


はる:「そうでしたね。いつも通る道から外れてみたくなって。それで歩いていたらあの梅の木が目に入ったんです。

ふふっ。生垣の向こうから急に”そんなに面白いものか?”って声を掛けられたものだから、驚いて大きな声を出してしまって」


實:「それはすまなかった。おれも生垣の隙間からたまたま君が見えたものでね。

花も咲いていない梅の木を熱心に見ているから、面白くてつい声をかけてしまった」

 

はる:「驚いたけれど、嬉しかったんですよ。實さんがここに来て良いと仰ってくださったこと」


實:「……」


はる:「あの梅の木のおかげですね」


實:「どうした? 急に外へ出て。濡れるぞ」


はる:「ふふっ。梅の木を近くで見たくなって。私にとっては、大切なものですから」


實:「……そうか」


はる:「實さんも濡れてしまいますよ」


實:「いいや。おれも近くで見たくなってね」


はる:「……そう、ですか」


實:「……」

 

はる:「あ、あの、近くに梅の花が綺麗な場所があるのをご存知ですか?」


實:「いや、知らないな」


はる:「庭園なのですが、梅だけではなくて桜も見事でいつも楽しみにしていたんです。でも、今はここの花が咲くのを一番の楽しみにしているんですよ」


實:「そこまで見事なものじゃないと思うぞ」


はる:「そうだとしても、私にとっては特別、綺麗に見えると思うんです」


實:「……そうか。君は変わってる子だね」


(はるの手を握る實)

 

はる:「み、實さん……?」


實:「……君の手は冷たいな」


はる:「……どうされたんですか?」


實:「いや……、なんでもない」

 

はる:「……實さんの手も冷たいですね」


實:「……そうか」


はる:「實さんは、花はお好きですか?」


實:「いや、おれはあまり興味がなくてだな。だが……、この梅の花は楽しみだ」


はる:「そうでしたか」


實:「それに君がそれだけ言うんだ。きっと綺麗な花を咲かせるんだと、そう思うよ」


はる:「ふふっ、きっとそうですよ」


實:「……」


はる:「楽しみですね」

 

實:「ああ」


はる:「一緒に見ましょうね」


實:「……ああ、そうだな」

 


====================


 

(はるが帰った後も、一人雪が降る中、庭で梅の木を眺めている實)

 

太一:「先生、そんなところでなにをされているんですか? 風邪をひきますよ」


實:「……梅の木を見てたんだ」


太一:「あいつはもう帰ったんですか?」


實:「ああ」


太一:「……先生」


實:「なんだ?」


太一:「あいつのこと、どうするおつもりなんですか?」


實:「……」


太一:「もうすぐここから移らなくてはいけないんですよ」


實:「分かってる。おれからはやくここを離れたいと言ったんだ」


太一:「なら」


實:「もうあの子とは顔を合わせるつもりはねえよ」


太一:「……もうここには来るなと、伝えられたんですか?」


實:「いや……、言おうと思ったができなかった」


太一:「……難しい話ですよ。先生はお優しいですからね。

あいつには明日、僕から伝えておきます」


實:「だが……」


太一:「先生はもうご自身の成し遂げたいことだけを考えてください」


實:「……ははっ、情けねえ話だ。今まで散々面倒ごとを任せてきたってのに、こんなことさえ弟子頼みとはな」


太一:「いいんですよ。僕は先生の助けになりたくてお傍にいるんですから」


實:「……すまねえ」


太一:「謝らないでください。ほら、部屋に入りましょう」


實:「なあ、太一」


太一:「なんですか?」


實:「この梅はいつ咲くんだろうな」


太一:「さあ……。もう二月ですから咲くかもしれませんし、遅咲きだとしたら、まだまだ先でしょうね」


實:「……そうか」


太一:「とりあえず先に入っていますから、はやく戻ってくださいね」


實:「ああ」


(部屋の中へと戻る太一)


實:「……お前はいつ咲いてくれんだろうな。

おれは見れそうにねえが、あの子のためにもどうかひとつ、立派に咲いてくれ。

……頼んだぞ」

 

 

====================


 

(次の日、いつも通り走ってやってきたはる)


はる:「あ……っ、太一さんこんにちは……!」


太一:「……来たか」


はる:「實さんはいらっしゃる? あ、私ねこの前、美味しいお菓子をお友達からいただいたの。お店も伺ったから今度お持ちするわね。きっと太一さんがお淹れになったお茶と合うと思うの」


太一:「(遮るように)もう、お前はここに来るな」


はる:「……どういうこと?」


太一:「そのままの意味だよ」


はる:「い、嫌よ。どうして急にそんなことを仰るの?」


太一:「先生がお前の為を思って決めたことなんだ。もう先生はお前と会うつもりはない」


はる:「私のため……?」


太一:「とにかくもう先生とは関わるな」


はる:「どうして……? 私、なにかしてしまったかしら?」


太一:「いま、言っただろ。いいからもう帰れよ」


はる:「い、嫌よ……!! ごめんなさい。理由を教えてちょうだい。私、ちゃんと反省するわ。だから」


太一:「お前が先生の邪魔だからだよ」


はる:「邪魔って……」


太一:「先生には成し遂げたいことがあるんだ。それは国のためにも、国民のためにもなる。そして、何より先生のためになるんだ」


はる:「だったら、私邪魔しないようにするわ」


太一:「だから、ここへ来るなと言っているんだ。それが最も先生の助けになる。

別に構わないだろ? 先生のことを忘れて、また暢気に生きればいい」


はる:「無理よ、そんなの……!」


太一:「無理?」


はる:「だって、實さんのことが好きなの! 私は實さんに戀をしているんだもの!!」


太一:「黙れよ!!」


はる:「……っ」


太一:「お前みたいな何の苦労もなく生きてきた娘になにが分かる……!?」


はる:「太一さん……」


太一:「お前は戀に憧れて、偶然、出会った先生にそれを擦り付けただけだろ。

……その戀だって、ただ無理やりそう名付けただけの紛い物にすぎない」


はる:「そんなことないわ……!!」


太一:「なら、お前は家に逆らってでも先生の傍にいられるのか? すべて失うことになっても、命をかけることになっても、先生を好いたままでいられるのか? 支えられるのかよ?」


はる:「それは……っ」


太一:「親が求めるように動き、親が決めた男と結婚し、子を成して母親になるだけのお前になにができる?

僕はそんな生半可な気持ちを抱えた奴に、先生の傍にいてほしくないんだ」


はる:「仕方ないじゃない……!! 私はそう生きるしかないんだもの!!」


太一:「それが腹立つって言っているんだよ!!」


はる:「……っ」 


太一:「ぜんぶ諦めて受け入れて……。

歯を食いしばって生きることもなければ、命に代えて成し遂げたいことも、諦めたくないものも持ち合わせていない人生はどんなに楽で、どんなに退屈なんだろうな……。

僕には分かりかねるし、分かりたくもない」


はる:「……」


太一:「……じゃあな。さっさと帰れよ」


(戸を閉めて、立ち去る太一)


はる:「……私は、實さんのことが好きよ。本当に好きなのよ……っ。

……どうして、こんな……」



====================



(5日後)

(戸を叩く音)

 

太一:「先生、入りますよ」


實:「ああ……」


太一:「どうしたんですか?この書き損じの量……」


實:「なかなか難しくてな。うまく纏まらねえんだ」


太一:「せめて、くず籠に入れてくださいよ」


實:「すまねえ」


太一:「そういえば、最近紅緒さんを見かけませんね」


實:「紅緒なら今は東京にいるそうだ。もうそろそろしたら帰ってくると思うぞ」


太一:「そうでしたか。

……それにしても、少し根を詰めすぎではありませんか? 休める時に休まないと持ちませんよ」


實:「……」


太一:「……先生?」


實:「……あの子はまた来てたのか?」


太一:「あ、ああ……。そうですね。もう来るなと伝えて、五日経ったというのにしぶとい小娘です」


實:「……そうか」


太一:「締め切った戸を数回叩いてから、外から梅の木を眺めて帰っているだけなので、害はないんですけどね」


實:「……」


太一:「……本当に良いんですよね?」


實:「なにがだ?」


太一:「もう今日の夜中にはここを発ちます。同じ町内ですが、簡単に見つかることのない場所です。

もうあいつと会えなくなりますよ」


實:「お前がそんなことを言うだなんて、どうした? 絆されたか?」


太一:「そういうわけではありません。僕としては清々しています。

僕はあいつみたいな、苦労も何もしていない、ただ暢気に生きているだけの奴が嫌いなんですから。何もかも最初から諦めているような生き方をして」


實:「ははっ、そうか」


太一:「なにか面白いこと言いました?」


實:「いや、確かにあの子はおれやお前とは違う人間だったなと思ってな」


太一:「……」


實:「お前、さてはあの子を酷い言葉で突き放しただろう?」


太一:「……っ」


實:「大方、邪魔だから来るなとでも言ったんだろうな。それを気に病んでるのか?」


太一:「ち、違いますよ。僕は本当にそう思っていて」


實:「嘘つけ」


太一:「……っ」


實:「お前は顔に出やすいからな」 


太一:「……あいつに全て正直に話しても、きっと私も手伝うだとか意味の分からないことを言って、首を突っ込んでくると思ったんです。それに巻き込まれることだって考えれられますし……

だから……」


實:「ああ」


太一:「確かに、僕はさっき言った通りあいつのことを邪魔だと思っています。

でも、僕は先生があの小娘のことを少なからず想っているように見えるんです」


實:「……」


太一:「本当にいいんですか? このままここを去って」


實:「いいんだよ」


太一:「……」


實:「前にも言っただろう。今はそういったことに現を抜かしている場合じゃねえ」


太一:「でも、それは先生の」


實:「(遮るように)くどいぞ、太一」


太一:「……っ」


實:「この話はここで終いだ。

ところで、用意は済んだのか?」


太一:「はい。あとはもうここを発つだけです」


實:「すまねえな。お前だけに任せて」


太一:「いえ」


實:「さて、もうひと頑張りだ。お前は今のうちに寝といたほうがいいぞ」


太一:「分かりました。なにかあれば声をかけてください」


實:「ああ」


太一:「それでは、失礼します」


(部屋を出て行く太一)



實:「……それにしても、たったの二十六文字だってのに、こんなにも躓くとはな。

勇巳の真似事で書くことはできても、自分自身のこととなると……。

ははっ、やっぱりこういったことは不得手みてえだ。

お前ならどんな風に表現すんだろうな、勇巳」

 

 

====================



(翌日、はるは再び實の家を訪れる)

(戸を叩く)


はる:「……ごめんください。

……今日もだめかしら」


紅緒:「……はるちゃん?」


はる:「っ!」


(戸が開く)


紅緒:「やっぱり、はるちゃんだわ……!」


はる:「紅緒さん……」


紅緒:「とりあえず、中に入って」


はる:「で、でも、勝手に家の中に入るのは」


紅緒:「あら、もういいじゃない。實たちの家ではなくなったんだもの」


はる:「え……?」


紅緒:「元々はあたしが買い取った家だったんだけど、仕方ないから實たちに貸していたのよ。

それで、なにか不備はないか確認をしていたところだったの」


はる:「……」


紅緒:「……はるちゃん?」


はる:「もうここに實さんも太一さんもいらっしゃらないんですか……?」


紅緒:「もしかして、聞いていないの?」


はる:「……はい。なにも知りません」


紅緒:「ああ……、そう。そうだったの。ごめんなさいね、驚いてしまったわよね。

あたし、さっき東京から戻ってきたばかりで……。ああ、もう。こんなことになっているのなら早く帰ってくるんだったわ」


はる:「……」


紅緒:「とりあえず、上がって頂戴」


はる:「……私、」


紅緒:「なあに?」


はる:「私、ずっと實さんの邪魔をしていたのでしょうか……?」


紅緒:「はるちゃん……」


はる:「實さんのことを考えずに、押しかけて……。

私はただ戀がしたいだけで、實さんに抱いた未熟な感情をただ戀と勝手に名付けて」


紅緒:「……っ」


はる:「それが邪魔になって、實さんはいなくなってしまったのでしょうか……?」


紅緒:「はるちゃん、違う。違うのよ」


はる:「違くなんてないわ!」


紅緒:「はるちゃん」


はる:「(遮るように)私が不相応にも戀なんてしようとしたから、罰があったったんです……!

戀をしたとて、私はその方と一緒にはなれないのに……!!」


紅緒:「……っ」


はる:「なろうとも考えたことがなかったわ……!

だって、ぜんぶお父様たちが決めた通りにしか生きていけない私には、そんなことできっこないもの……!!

そんな私が戀だなんてできるわけないじゃない!!

ただただ幼稚な我儘でしかなかった!!

憧れだけに留めておくべきだったのよ……!

……それなのに、そう分かっているのに……っ!」


紅緒:「……」


はる:「……私も、どうしてこんなに惚れてしまったのか分からないのです……。

きっとこれも未熟なものだろうに」


紅緒:「そこまでになさい」


はる:「……っ」


紅緒:「もうそれ以上、自分を貶めるようなことを言わないで」


はる:「紅緒さん……」


紅緒:「そういうものよ。戀だなんて。

本当にどうしようもないものなの。自分勝手な感情で、制御がきかなくて」


はる:「……」


紅緒:「そもそも、そんな決意を持って戀をする人なんてめったにいないわよ。戀なんてしようと思ってできるわけないじゃない。

ただ通りがかりに一目見ただけで戀に落ちることもあるぐらいなんだから。

未熟かどうかなんて知ったこっちゃないわ。はるちゃんがそれを戀と言うのなら、まごうことなき戀よ。あたしが保証するわ」


はる:「紅緒さん……」


紅緒:「それにね、邪魔だと思っていたのなら、實ははやくに理由を付けてここへ来ないように言ったはずよ」


はる:「……」


紅緒:「……やっぱり、はるちゃんには聞かせるべきだわ」


はる:「え……?」


紅緒:「とりあえず、こちらへいらっしゃい」


はる:「……」


紅緒:「ほら」

 

はる:「分かりました……。お邪魔いたします」


紅緒:「好きなところに座って頂戴ね。なんにもないけれど」


はる:「……本当にいなくなってしまわれたのですね」


紅緒:「そう、ね。

ねえ、はるちゃん。これからする話はね、本当は聞かせるべきではない話なの」


はる:「……はい」


紅緒:「でもね、あたしははるちゃんには聞く権利があると思うし、何よりあたしが聞いてほしいの」


はる:「實さんのことについてですか……?」


紅緒:「ええ。

さて、どこから話したもんかしら……」

 

はる:「……」


紅緒:「……はるちゃんは、今のこの国をどう思う?」


はる:「……ごめんなさい、なんて答えたらいいのか分からなくて」


紅緒:「そうよね、難しいわよね。

じゃあ、はるちゃんは生きててなにか困ったこととかない? こうなればいいのに、みたいなものでもいいわ」


はる:「……好きにいきられたらって思うことがあります」


紅緒:「それはどうして?」


はる:「私は、お父様たちが望んだとおりに生きてきました。これからもそうです。

私はもういつお嫁に行ってもおかしくない歳ですし、お父様が決めた家に嫁入りし、子供を成すでしょう。

それも当然のことだと思っていましたし、不満もありませんでした。

でも、近頃はそれがどうしても嫌で嫌で仕方がなくて……」


紅緒:「……」


はる:「我儘を言っているということは分かっているんです。

私はお父様たちのために、この国のために生まれたということも分かっているんです。

でも……」


紅緒:「……そうよね。みんながみんな、好きなようにに生きられたらいいわよね」


はる:「……はい」


紅緒:「實は、この国をそういうふうに変えたかったの」


はる:「変えたかった……?」


紅緒:「変えたかったというのは語弊があるわね。實自身はそこまで考えていなかったと思うから」


はる:「……」


紅緒:「今の政府は思い通りに国民を動かしたい一心で、国民の自由を奪い、思考や行動を制御しようとしている。

だから、言論の統制は厳しいし、読むことのできる本や新聞もどんどんと減らされていく。

残ったのは、政府にとって邪魔にならないもの、もしくは都合のいいものばかり。

でも、なかには未だに抗っているものもあるの。

……はるちゃんは自由革新新聞を知っているかしら?」

 

はる:「いえ……」


紅緒:「自由革新新聞は今としては珍しく政府への不満も載せるし、この国を変えようと国民に働きかける様な記事も出して

いる新聞よ。

この新聞社を立ち上げたのが實と檜山勇巳という男だった」


はる:「檜山……?」


紅緒:「あたしたちと同郷で作家をしていた男よ。

代表者は檜山勇巳で、實は手助けをするために一緒に活動をしていたの。昔から仲が良かったから。

今の政府を変え、国民を救うために作り上げた小さな団体は、同じ志をもつ人々が仲間に加わり、やがて新聞社をつくりあげるまでになった。

国民の自由を取り戻すために作られた新聞は、目立たないけれど確実に発刊数が増えて行ったわ。

でも、それを政府が野放しにするはずもなかった」


はる:「……」


紅緒:「……二年前、大逆罪で作家や新聞社の関係者が処刑されたのは知っているかしら?」


はる:「いえ、存じません……」


紅緒:「そうよね。世間には出回らなかったことだから。

その時、処刑されたのが檜山勇巳と自由革新新聞に関わってきた人たちだったの」


はる:「……っ」


紅緒:「実際は大逆罪なんて犯していないのよ。ただ、邪魔だったから罪を着させられて処刑されたの。

その時だけじゃない。あの人たちの前にも似たようなことが何回かあったわ」


はる:「そんな……」

 

紅緒:「……實は勇巳によって、捕まりそうなところをかばわれて、それで逃げることができたのよ。

だから、實はきっとあの人たちの死を背負ってしまっているの」


はる:「……」


紅緒:「新聞社は今も志を引き継いだ人たちによって続いているわ。その新聞に掲載するために、實は檜山勇巳の名前で、勇巳が書いていた小説の続きを書き続けているの。

誰も頼んでいやしないのに」


はる:「で、でも、それなら實さんは今も危ない状態なのでは……?」


紅緒:「……そうね。危ないわ。今もきっと實のことを捕まえようと探しているはずだもの。

だから、はるちゃんを突き放すしかなかったんだと思うの。巻き込まれてしまったら危ないもの。

まあ、やり方は下手だったけど」

 

はる:「……」


紅緒:「……辛いわよね。何もかも知らなかったことも、傍にいられないことも。

あたしも二年前、あの人が処刑されるまでなにも知らなかったの」


はる:「え……?」


紅緒:「……聞いてもはぐらかされてね。後々になって實に聞いたら、あたしを巻き込みたくなかったから言わずにおこうってあの人が言ったんですって。

それを知ったとき、本当に腹立たしくて、悲しくて仕方がなかったわ。もう涙もでないくらいに」


はる:「紅緒さん……」


紅緒:「あの人は子供の時から穏やかで優しい人だった。

……紅緒という名もね、あの人がきっかけなのよ」


はる:「……」


紅緒:「あたし、今じゃ着飾っているけれど昔は化粧っ気もなくて、そういったことに興味はあったけれど手を出せずにいたの。

だけどある日ね、あの人が紅を贈ってくれて……。

その紅をさしたらあの人、えらく褒めてくれてね。綺麗だって。

それが嬉しくて、浮かれてしまって、紅という漢字を名前に入れてしまったのよ」


はる:「紅緒さんは勇巳さんを好いていらしたんですね」


紅緒:「ふふっ、今もね。

……惚れた弱みにゃ あなたが今も あたしに変わらず 紅を差す。

あたしはずっと、少女だった頃からあの人のことが好きなままなの」


はる:「……」


紅緒:「あたしは何も知らなかった。

縋るだけ縋って、それでも突き放されたらここまで辛くなかったかもしれないし、諦めが付いたかもしれないのに。

だから、あたしははるちゃんに知ってほしかったの。

それが良くないことだと分かってはいるけれど、あたしみたいになってほしくはなかった。

……ねえ、はるちゃん」


はる:「はい」


紅緒:「今ならなんだってできるわ。實に思いを告げることも、縋ることも、なんだってできる。

はるちゃんは……、どうしたい?」


はる:「私は、」


紅緒:「……」


はる:「私は實さんには会えません」


紅緒:「はるちゃん……」


はる:「本当はどうかどうか一緒に逃げましょうと言いたいです。

家もなにもかも全部捨ててもいいから、一緒に遠くへ行きたいと縋りたいです。

でも、それはきっと實さんが望まないだろうから。

……私は實さんに戀をしています。實さんのことをお慕いしています。

だから、實さんの覚悟を尊重したい」


紅緒:「そう……」


はる:「本当はもう諦めるのが一番良いのでしょうけれど、お二人のおかげで分かったんです。


”諦めましたよどう諦めた 諦め切れぬと諦めた”

私はやっぱり、この戀を諦めることなんてできないわって」


 

====================



(戸を叩く音)


實:「……どうした?」


太一:「紅緒さんがお見えです」


實:「そうか。通していいぞ」


紅緒:「……太一には聞いていたけれど、本当にずっと書いているのね。ここまで熱心なのは初めて見たわ。明日は大雪かしらね」


實:「久しいな、紅緒」


紅緒:「そう? そんなでもないんじゃない?」


實:「東京はどうだった?」


紅緒:「相変わらず煩い場所だったわよ。あんたはどうだった?」

 

實:「変わりはねえよ。ここも狭いと聞いていたが、暮らす分にはなにも問題ねえ」


紅緒:「そう。なら良かったわ」


實:「よくこんな場所を融通できたな」


紅緒:「こう見えて人気作家ですから。ツテも金もたくさんあるの。気に入ってくれたかしら?」


實:「ああ。……ははっ」


紅緒:「……なに?」


實:「お前、怒ってるだろう?」


紅緒:「……」


實:「おっかないからすぐに分かる」


紅緒:「じゃあ、理由も分かっているのかしら」


實:「さあな」


紅緒:「はぐらかさないで」


實:「……」


紅緒:「……処刑されたのね。高野さん」


實:「……ああ。昨日な」


紅緒:「あっちでも、もう何人か処刑されたわ。

……あんたももう時間の問題よ。場所を変えたって、ここだって同じ町内。見つかってもおかしくないし、すでに捕まった人が口を割るかもしれない」


實:「そうだなぁ。いつ捕まったっておかしくねえだろうな」


紅緒:「……」


實:「良い人生だったよ。そりゃ後悔もあるが、好き勝手に生きることができた」


紅緒:「その後悔にはるちゃんは存在しているのかしら?」


實:「存在してるわけないだろ。後悔する必要がねえんだからな」


紅緒:「……」


實:「あの子はまだ若い。

ほんとにおれを慕ってくれてたとしても、戀に戀するような年頃の娘だ。

そんな一時の気の迷いみてえなもので、人生を台無しにすることはねえ」


紅緒:「なによそれ……」


實:「あの子は良いところのお嬢さんだから、それなりのところに嫁ぐだろうし、生きていくには困らねえはずだ。

そして、歳を重ねてく中できっと忘れる。忘れなくとも、若き日の思い出としてたまに思い出すぐらいだろう。

だが……そうだな。あの子にはこの先、幸せであってほしいとは思うよ」


紅緒:「ふざけないで……」


實:「……なんだ?」


紅緒:「ふざけるなって言ってんのよ!!」


實:「……」


紅緒:「なにが幸せであってほしいよ!! あんたも勇巳も勝手に人の幸せを願うだけ願って……!!

なにも知らさずに死んで……!! それでなに? まだ若いからいつか忘れるって? いい加減にして!!」


實:「だったら、どうすればよかったってんだ?」


紅緒:「……っ」


實:「あの子を今も変わらず傍においときゃよかったのか……? あの子の想いを受け入れりゃよかったのか?

それで、あの子の身が危険に晒されたとしてもそうすべきだってのかよ?!」

 

紅緒:「でも、いずれこうなることは分かっていたじゃない……!

あんたがあの人の残したものを背負って生き続ける限り、いつかはこうなるって!!

それなのに、どうしてあの子の戀心に気付きながらも傍に置いたのよ!?

咲かせた花を手折るような真似をして、あんたはなにがしたかったの……!?」


實:「……っ」


紅緒:「あの子はあんたに戀をしているの!! 戀に戀なんてしちゃいないわ!!

たかが小娘の戀心だなんて舐めないでちょうだい……!!

いずれ忘れるだなんて馬鹿にしないでちょうだい!!」


實:「……ああ、そうだな。まったく……、耳が痛くて仕方ねえ」


紅緒:「……っ」


實:「……ずっと分かっちゃいたんだ。馬鹿なことをしてると。

だが……、なかなか手放せなくてなあ。恐ろしいもんだ」


紅緒:「實……」


實:「勇巳のことも、新聞社のことも、背負って降ろしちゃいけねえ、手放しちゃいけねえと思ってたが、手放したくねえと思ったのは初めてだ。

……だからこそ、おれはあの子の傍にいることはできねえ」


紅緒:「(ため息をつく)

……あんたって馬鹿な男よね」


實:「いくらでも言ってくれ」


紅緒:「……」


實:「……なあ、紅緒」


紅緒:「なに?」


實:「あの子は元気だったか?」


紅緒:「……ええ」


實:「そうか……」


紅緒:「……あたしはもう行くわ。また何かあったら報せにくるから」


實:「紅緒」


紅緒:「まだなにかあるの?」


實:「太一と、もしもあの子になにかあればそん時は」


紅緒:「言われなくとも面倒見るわよ」


實:「すまねえ。

それと……」


紅緒:「なによ」


實:「……勇巳のこと、すまなかった」


紅緒:「……別にあんたが謝ることじゃないわ。あの人が決めたことなんだから。

それじゃあね」  


(部屋から出て行く紅緒)

(部屋の外には太一が立っていた)

 

紅緒:「……あらやだ。盗み聞き?」


太一:「別にそういうつもりではありません」


紅緒:「はいはい」


太一:「あいつに会ったんですか?」


紅緒:「会ったわよ。それでぜんぶ話したわ。二年前のことから全部」


太一:「全部って……、そんなことあいつが知ったら」


紅緒:「はるちゃんは会えないって言っていたわ」


太一:「え?」


紅緒:「本当は縋りたいけれど、實が望まないことだろうからって」


太一:「……そうですか」


紅緒:「じゃあね。あんたも気を付けなさいよ」


太一:「……はい」


紅緒:「……ああ、寒いわ。 明日は雪が降りそうね」

 


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(翌日の夕方)

(戸を叩く音)


太一:「先生、お茶をお持ちしました」

 

實:「ああ、そこに置いといてくれ」


太一:「分かりました。今日は寒いですね。さっき、外を見たら雪が降っていました。紅緒さんの言葉があたりましたね」


實:「なにか言っていたのか?」


太一:「昨日、いらっしゃったときに雪が降るかもしれないと」


實:「そうか」


太一:「それで、頼まれたとおりに二人分ご用意しましたが、誰か来るんですか?」


實:「いや、それはお前が飲んでくれ」


太一:「僕が?」


實:「ああ、たまにはいいだろ」


太一:「分かりました」


實:「おれが淹れようかと思ったんだが、お前の茶は美味いからな」


太一:「二年の間、ずっと先生にお出ししてきたんです。嫌でも上達しますよ」


實:「……二年前、あの事件のあとのことだったな。お前が勇巳に会おうと新聞社の人間に声をかけてきたのは」


太一:「はい。新聞で見た作品が忘れられなくて」


實:「だが、もうそん時には勇巳は処刑された後で、結局、おれが面倒を見ることになった。

いまじゃ、お前がおれの面倒を見てくれてるようなもんだけどな。

……あん時の坊主がこんな立派になるとは思わなかった」


太一:「二年、先生のお傍で学ばせていただきましたから。

確かに最初は、檜山勇巳を追いかけていました。でも僕は今は亡き仲間たちの信念を継いで、国を変えようと奔走する先生の姿に感銘を受けたんです」


實:「……そんな褒められたもんじゃねえよ」


太一:「……」


實:「おれは正直な、この国がどんな道を辿ろうとどうでも良かったんだ。

新聞社を立ち上げたのだって、勇巳が一緒にやってくれって声をかけてきたからだ。

だが、なかなかに楽しかった。勇巳や集った仲間たちが熱く語り合うのを聞いているのは。

そいつらの夢を叶えさせてやりたくて、おれは動いてただけなんだよ」


太一:「先生……」


實:「勇巳の作品を継いで書き始めたのも、意志を継いでだなんてもんじゃねえ。ただの罪滅ぼしだ。そうすれば生き残ったことを許してくれると思い込んだ。

きっと誰も責めやしねえだろうに、おれはそうやって生きることしかできなかった。

……一人だったら早々に逃げてたかもしれねえな。なんとか書き上げられたのは残った仲間と、お前や紅緒の存在のおかげだ」


太一:「え? 書き上げたって……」


實:「もう書き終わったんだよ。この前、原稿を持たせただろ? あれでもう全部だ」


太一:「じゃあ、最近書いていたのは?」


實:「ニ年前のことや、今回のことを纏めていたんだ。

勇巳たちが何を思って活動していたのか、政府がなにをしたのか」


太一:「……」

 

實:「このまま変わらなければ、いずれ本当に国民は自由がなくなっちまう。

それを変えようとまた誰かが動き出すとき、なにか力になれたらと思ってな」


太一:「どうしてそんな……」


實:「この国が良いものになればと思うようになったんだ。

……こんな世の中じゃ、おれはきっとあの子を幸せにはしてやれねえだろうから」


太一:「……っ」


實:「今、言ったことは誰にも言うなよ。言ったらお前の枕元に化けてでてやるからな」


太一:「でも」


實:「頼む。言わないでくれ」

 

太一:「……分かりました。

本当にもう良いんですか? まだ、会おうと思えば会えますよ」


實:「いや、いいんだ。

それにもう時間はねえ」


太一:「先生、もしかして……」


實:「確かな証拠なんてものはないがな。虫の知らせってもんか? 

ははっ、当たってほしくはねえが、もう生き延びる理由もない」


太一:「……っ」


實:「お前はこれを持って、しばらく離れた場所にいてくれ」


太一:「これは……?」


實:「さっき言った原稿だ。細かくまとめた代わりにとっちらかっちまっててな。お前に修正してほしいんだ」


太一:「……」


實:「お前にしか頼めねえことだ。やってくれるか?」


太一:「……それが、先生の頼みなら」


實:「話の分かる弟子でよかったよ」


太一:「そりゃ、先生に二年間振り回されてきたんです。そうじゃなきゃ、務まりませんよ」


實:「すまねえ」


太一:「謝るぐらいなら頼まないでください。

本当は僕は、先生の盾になって死んでもよかったんですから」


實:「そりゃ困るな。おれは最初からお前に託すつもりでいたからな」


太一:「……」


實:「ほら、もう行け」


太一:「……分かりました。

先生」


實:「なんだ?」


太一:「……今までお世話になりました。そして、しっかりと務めさせていただきます」


實:「ああ。

太一、ありがとうな」


太一:「失礼いたします……」 


 

(部屋を出て、外を走る太一)


太一:「(走る)

ああ、もう……、本当に世話のやける人だな……っ!!」 

(走ってどこかへ向かう)

 

  

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(雪の中、梅の木を見ているはる)

 

はる:「……ああ、そろそろ帰らないと。

だいぶ、降ってきてしまったわね。もう真っ白だわ。

最後に實さんとこうやって梅をみたのも、こんな雪の日だったわね。

今頃、どうされているのかしら……」


太一:「おい……っ!!」


はる:「っ!!」


太一:「やっぱりここにいたか……、良かった……っ」


はる:「太一さん……?」


太一:「(息を整える)」


はる:「どうされたの……? 大丈夫?」


太一:「先生が」


はる:「え?」


太一:「先生が、もう捕まる」


はる:「……っ!」


太一:「連れて行かれたら処刑されるのは確実なんだ。もう会うことはできない。

お前が会いたいなら、先生のところへ連れて行ってやる」


はる:「實さんに会えるの……?」

 

太一:「これは僕の独断だ。

もう遅いかもしれないし、いたとしても一言も話せずに遠くで見ることしかできないかもしれない。

……お前はどうしたい?」

 

はる:「で、でも、私が行ったら……」

 

太一:「そんなことはどうでもいいんだよ! お前はどうしたいんだ?」


はる:「私は……」


太一:「もう二度と会えなくなるんだぞ……?!

今ならまだ……、まだ間に合うから……!」


はる:「私は……、實さんに会いたい」

 


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(一人、机に向かう實)


實:「ああ、迎えが来たか。

ったく、虫の知らせとはよく言ったもんだ。

……あの子はまだ梅を見てんだろうか。


情けねえことだ。

名だってろくに呼べなかったほどに。見たこともねえ、思い入れもねえ花を戀しく思うほどに。

……来世でもそん次でもいい。いつかこの世の中が変わったときに、またあの子に会いてえと願うほどに、おれは……。

本当に儘ならねえもんだ。

果てにこんなもんまで書いちまうとは……。


ははっ、本当に我ながら下っ手くそな都々逸だな……」



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(雪の中、走る太一とはる)


太一:「あともう少しで着くぞ……っ!」


はる:「え、ええ……っ」


太一:「……っ!!」


(立ち止まる)


はる:「太一さん? どうされたの? 急に止まって」

 

太一:「……」


はる:「太一さん……?」


太一:「……」


はる:「……もしかして、あの囲まれているのは」


太一:「ああ……」


はる:「……」


太一:「おい、近づくなよ。もしかしたらお前も」


はる:「……っ」


(走り出すはる)

   

太一:「おい……!!」


はる:「(走る)

實さん……っ、實さん……!!」


實:「……っ」


はる:「私は、私は實さんのことが……!!」


實:「……」

 

はる:「え……?」


實:「……」(はるの方を向き、微笑んだ後、なにかを言っている*あとがき参照)


はる:「實さん……? いま、なんて……?」


太一:「おい……! それ以上はやめろ……!!」


はる:「待って……っ!! 今なんて仰ったの……?! 連れて行かないで……っ!!」


太一:「おい……っ」


はる:「お願いよ……、連れて行かないで……。

お願いだから……っ」


太一:「……っ」

 

はる:「實さん……」

 

太一:「……」


はる:「……っ」


(人影も見えなくなり、何も聞こえなくなる)

 

太一:「……ひどく静かだな。雪の夜は」


はる:「……」


太一:「先に帰るぞ。お前も落ち着いたらはやく帰った方が良い」


はる:「太一さん」


太一:「……なんだ?」


はる:「……ありがとうございました」


太一:「……ああ」


(去っていく太一) 

 

はる:「……寒いわ。

……寒くて、痛くて、悲しくて……。

戀がこんなに苦しいものだなんて知らなかった。

忘れられたら楽になれるのかしら。

……でも、忘れたくないの。實さんが教えてくださったことだもの。


嫌ね。

言われたとおりに手放せるほど子供でもなくて、仕方ないと思えるほど大人でもないだなんて。

これから先もずっと實さんに、戀をし続けるんだわ。きっと……」

 

 

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(一月後) 


紅緒:「ああ……、今日はあったかいわね」


太一:「そうですね、もうすっかり春ですよ」


はる:「……」


紅緒:「はるちゃん、大丈夫……?」


はる:「は、はい。大丈夫ですよ。ごめんなさい、考え事をしていて」


紅緒:「そう……」


太一:「ところで、どうしてまた人の家に勝手に入り込んでいるんですか?」


紅緒:「いいじゃない。あたしが用意して上げた家なんだから。

そんな風に言いながらも、お茶淹れてくれるんだから可愛いわよね、太一って」


はる:「ふふっ、そうですね」


太一:「(ため息をつく)

僕、こう見えても忙しんですよ。前の家から丸ごと物を持ってきたので片づけなくちゃいけないんです」


紅緒:「ああ、それでゴミみたいなものまで置いてあるのね」


太一:「時間がなかったから仕方ないじゃないですか」


紅緒:「そうよね。大変だったものね、あんたも」


太一:「……もう先生が亡くなってからひと月も経ったんですね」


紅緒:「ええ」 


太一:「……それで、どうしてお前はここに来たんだよ」


はる:「ああ……、お二人にお礼を伝えたくて」


太一:「別に……、礼なんていらないぞ」


はる:「でも、どうしても言いたかったんです。

……本当に、ありがとうございました」


太一:「……」

 

はる:「私、これからは好きなように生きていけるよう頑張ろうと思っています。

今までいろんなことを最初から諦めていたけれど、どうしても諦められないことが見つかったから」


紅緒:「はるちゃん……」


はる:「そう思えるようになったのは、きっとお二人のおかげです。

ありがとうございました」


紅緒:「……そう。

なにか困ったことがあれば言って頂戴ね。応援しているから。

ね、太一?」


太一:「あ、ああ……」


紅緒:「そんなことよりもほら、そろそろ行かないとでしょう?」

 

太一:「なにか用事があったのか?」


はる:「梅の花を見に行くんです。きっと今日は咲いていると思うから」


紅緒:「気を付けて行ってらっしゃいね」


はる:「ありがとうございます。それでは……」


太一:「はる」


はる:「太一さん……?」


太一:「これ、先生から。あとで見てくれ」


はる:「實さんから……?」


太一:「そ、それとな」


はる:「なあに?」


太一:「その……、前にお前の戀は戀じゃないって言ったことがあったけど……」


はる:「……」


太一:「……訂正する。お前はちゃんと、戀をしているよ」


はる:「……ふふっ、ありがとう。太一さん」


太一:「ああ」

 

はる:「それじゃあ、行ってきます」


紅緒:「行ってらっしゃい」


(家を出て行くはる)


太一:「……」


紅緒:「ふふっ、よく言えたわね」


太一:「別に……。本当に思ったことですから」


紅緒:「……あんたは大丈夫なの?」


太一:「平気ですよ。

でも……、時折考えてしまうときがあります。

最後に先生の元へあいつを連れて行ったのは間違っていたのかもしれないって。

はじめて、先生の頼みを無視して……。それなのにろくに話すこともできなかったから」


紅緒:「……別に良いんじゃない」


太一:「え?」


紅緒:「よく頑張ったわよ、あんたは」


太一:「……っ」


紅緒:「これからはどうするの?」


太一:「……先生から託されたものがありますから、何とか形にして見せます。

それで……、この世が良いものになるように微力ながら頑張りますよ。

……いつかあの二人が今度こそ結ばれて、幸せに生きられるような世の中になるように」


紅緒:「あんたにしては、珍しいことを言うじゃない」


太一:「まあ……、そうですね」


紅緒:「……”二世も三世も添おうと言わぬ この世で添えさえすればいい”」


太一:「聞いたことのある都々逸ですね」


紅緒:「なんだか、今の言葉であの人たちのことを思い出しちゃって。

嫌ねぇ、實も勇巳も。

来世なんて知ったこっちゃないんだから。

世の中がどうなろうと、二人でいられたらそれだけで幸せだったのに。

……本当に、馬鹿な人たち」


太一:「……」

 

紅緒:「でも、仕方ないわね。あたしも頑張るわ。あたしのためにもね。

太一も二人のためだけじゃなくて、あんたのためにそうしなさいな」


太一:「……はい」

 

紅緒:「まあ、困ったら面倒を見てあげるわよ。あんたも、はるちゃんも。

ああ、太一。お茶のおかわりくださる?」


太一:「……仕方ありませんね。あともう一杯飲んだら帰ってくださいよ」


紅緒:「分かったわよ。ありがとうね」


(部屋を出る太一)


 

太一:「……先生に怒られそうだな。あいつに勝手に渡したこと。

でも、先生が悪いんですよ?

捨てるならくず籠にって、僕はちゃんと言ったんですから。

なにを悩んで書いているのかと思えば……。

そんなもの考える前に、惚れているだの、好いているだの、……一言でいいから口にすれば良かったのに。


……案外、似た者同士なのかもしれませんね」


  

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(一人、梅をみるはる)


はる:「實さん。見えていますか? 

綺麗に咲いていますよ。

ふふっ、遅咲きの梅だったんですね。


私、實さんとこの花を見ることができたら、お伝えしたいことがあったんです。

どんなに實さんのことを好いているのか、どれだけの戀心なのか。

今はまだ言いませんよ。

いつかまた会えた時にお伝えしますから。

その時は、どうかお傍にいさせてくださいね。


この都々逸の意味も教えていただかないと。

……ふふっ、本当に素敵な唄」



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實:「”まだ見ぬ花を戀しく思い 遠くの春を愛おしむ”」



〈終〉


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