青い青い夏の日のこと -Side Story-
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side story「夏と人間と猫と」
吾輩は猫である。名前はまだない。
どうやらこれは有名な人間が書いたなにからしい。
詳しいことは知らない。なぜなら猫だから。
おれは猫である。名前はない。
「みけちゃんー!」
もう一度、繰り返そう。
おれは猫である。名前はない。
「みけちゃん、こんばんは」
だが、人間が勝手に変な名前をつけてきやがる。
”みけちゃん”
なんだ、そのやわやわとした響きは。
おれは一匹でここまで生きてきたんだぞ。そろそろ尻尾が二又に分かれてもおかしくない。
名付けるのであれば、もっと威厳のある名前をつけてほしいところだ。
だが、もうこの名前を付けられて数年。今更、考え直されることなどないだろう。
「今日もかわいいねぇ」
ああ、もうやめろ、撫でるな。暑苦しい。
「あ……、行っちゃった。嫌だったかな。ごめんね」
「きっと照れてるだけよ」
見当違いなことを言いながら婆さんが店の奥から出てくる。
婆さんの姿に気が付いたのか、人間はおれから視線を外した。
「おばちゃん、こんばんは」
「こんばんは。今日はなにを買いに来たの?」
「お醤油。お姉ちゃんが買い忘れちゃったみたいで」
ここはササキ商店という場所だ。おれが子猫のときからある店だからよく知っている。
そして、おれの今の寝床でもある。だが、勘違いしてもらっちゃ困る。おれは婆さんに飼われているわけじゃない。
婆さんが頼んでもないのに飯を出してくるから仕方なくいてやっているのだ。
そして、婆さんと話しているこの人間のことは知っている。
よくここに買い物に来る人間だ。
こいつと似ているのがあと二人いる。
こいつよりも大きいのと、こいつよりも小さいの。
どいつもうるさいが、小さいのと比べれば大きいのと真ん中の人間はまだいい。
今日のは真ん中の人間だ。
最近は大きいのと、小さいのばっかりみていたから、真ん中の人間を見るのは久しぶりな気がする。
そういや、この真ん中の人間。随分と小さくなったような気がする。気のせいだろうか。
人間は大きくなったり、小さくなったりするのだろうか。
婆さんもどんどん小さくなっているような気がする。
そういうものなのかもしれない。
まあ、そんなことはどうでも良い。
人間たちがなにか話している横をすり抜けて外へ出る。
太陽はもう少しで海の向こうに沈むだろう。
昼間の暑さが嘘のように涼しい。もう夏もお終いだ。
毛を撫でていく潮風が気持ちいい。
ひょいっと店の前のベンチにのぼって、あくびを一つする。
ここいらで、また寝るのもいいかもしれない。
「あ、みけちゃん。またね」
買い物を終えたのか、店から出てきた人間はおれに手を振っている。
「あ、ナギちゃん。ちょっと待って」
店から少し焦ったような婆さんの声が聞こえてきたと思ったら、ばたばたと足音を響かせながら、なにか丸いものがはいった袋を手に店から出てくる。
その袋を人間に差し出す。
「これね、スイカ。知り合いからもらったんだけど、私一人じゃ食べられないからもらってくれない?」
人間は悪いだの何やらごちゃごちゃと言っていたが、婆さんは負けじとその袋を人間に無理やり押し付けていた。
「いくつかもらったのよ。ね、ハヅキちゃんやウミちゃんと一緒に食べて」
しばらくそんな問答をしていたが、最終的に人間はその袋を受け取った。
「わたしたち、みんなスイカ好きだから嬉しい。ありがとう、おばちゃん」
笑ってそう言うと、人間は今度こそ帰っていった。
その背中を婆さんはおれの隣でずっと見送っている。
おれは知っているぞ。
あのスイカ、さっき婆さんが買ってきたやつだろ。あの、スイカが良いやつだってことも知ってるんだ。
婆さんが言ってたからな。久しぶりに奮発しちゃおうかしらって。
そんなことを思いながら婆さんの顔を見遣るが、婆さんは前を向いたままだ。
「ナギちゃん……、大丈夫かしらね」
ぽつりと婆さんがそんなことを言ったが、おれは何のことだか分からなかった。
もう太陽は沈み、あたりは薄暗い。店の白い電灯がやけに眩しく感じられる。
夏の終わりを感じながら、おれはもう一度丸まった。
====================
夏がもう終わると言っていたのは、やっぱり正解だったらしくあっという間に秋になった。
秋は昼寝をするのに丁度いい。
ベンチの上で丸くなって、あくびをする。
ああ、今日は良い日だ。静かだし、あったかいし、
「みけちゃんー!!!!」
こうして煩いやつが来なければ、本当に穏やかないい日だった。
遠くから走ってくる人間が見えたが、もう逃げるのも面倒くさい。
「みけちゃん、こんにちはー!元気かな?あたしはね元気!!」
ああ、撫でまわすな、撫でまわすな。おれの気品ある毛並みが損なわれるだろ。
だが、悲しいことにそんなおれの言葉が伝わることはなく、目の前の人間は遠慮なく撫でまわし続ける。
こいつはあれだ。小さい方の人間だ。
大きいのと、真ん中のがいれば止めてくれるが今日は見当たらない。
「あら、ウミちゃん」
店の周りを掃除していた婆さんが戻ってきた。
「あ、おばちゃん。こんにちはー!」
今だ。
おれは人間が余所見をしたうちにするりと抜け出す。
”あっ”と人間の声が聞こえたが、おれはすたすたと婆さんの後ろに回り、そのまま店の奥に引っ込んだ。
「学校は?」
「今ね、テスト期間で帰るの早いんだ」
毛並みを整えながら人間たちの話しを聞く。
「そんでね、テスト勉強のお供にお菓子買いに来たの。ま、勉強するかは置いといてさ」
そんなことを言いながら、人間は店内を見渡す。
その様子を、隅で気づかれないように、毛並みを整えながら眺める。
「あ!」
突然の大声に体がびくっとなる。
なんだなんだ、と人間の方を見てみると、店の一角に置いてあった何かを掲げた。
「おばちゃん、このゼリー置いてくれたんだ!」
「ああ、そうなの。ハヅキちゃんから聞いて早く入荷しようって思ってたんだけど。ごめんね、何だか品薄だったみたいで遅くなっちゃって」
「ううん!ありがと!ナギちゃんも喜ぶと思う」
”お小遣い足りるかな……”そう言いながら、人間はドサッとそれをカゴに入れた。
「……ナギちゃん、具合どう?」
「ああ……、ナギちゃんは元気だよ。そこまで具合悪そうなところ見ないし。
でも、多分無理してるんだと思うんだ」
それに婆さんは”そう”と小さな声で返した。
何となく人間があの真ん中の人間の話しをしているのは分かる。そういえば、最近ぱったりと見ていない。
「ご飯もさ、無理して食べてんの見てて分かるの。本当は食欲もそんなにないだろうし、噛むのも結構大変なんだと思う。
でも、変に食べやすいものばかり出してもナギちゃん食べないんだよね。
だから、こういう元々好きなやつなら食べてくれそうじゃんって、ハヅキ姉ちゃんと話してたんだ」
人間は商品棚を見てばかりで、こちらに顔は向けない。
だからどんな顔をしているのかは分からないが、いつもと様子が違うことは分かる。
「食べること以外にもさ、歩いたり、手を動かしたりするのもしんどくなってきているのかなって。
物を落としたり、転びそうになったりすると、ナギちゃん笑うんだよね。大丈夫だよって。
……あたし、妹だけどさ、もう少し頼ってくれてもいいのにね。じゃないとあたし、面倒かけてばっかりになっちゃうじゃん」
店の中が静かになって、風の音が聞こえる。
あまりにも静かすぎて、おれも動きを思わず止めた。
人間も婆さんも喋らなかったが、
「あー!!ダメダメ、あたしが暗くなってどうすんの!!」
人間がまた急に大声を上げた。
そして、自分の頬をなぜかばちばちを叩いて、こちらに振り向く。
「大丈夫!なんとかなるからさ!」
そう言うとずんずん歩いて、カゴをレジの前に置いた。
「文化祭終わって部活も休部することにしたし、これからはナギちゃんの傍にたくさんいるんだ。それで、ナギちゃんのことを助けて、頼れる妹になってやるんだから!」
そう言い切る人間に婆さんはふふっと笑った。
「じゃあ、これもおまけにつけてあげちゃう」
「ほんと?!おばちゃん、優しい」
「テスト勉強もがんばってね」
婆さんの言葉に人間は、うっと喉になにか詰まらせたような声を出してから、えへへと誤魔化すように笑った。
そのまま、学校で怒られたとか、なんとかピーピー話し始めたのをちらっと見てから、気づかれないように外へ出て、またベンチの上で丸まった。
うるさい人間が静かだと落ち着かない。だが、どうやら気のせいだったらしく店の中から婆さんの笑い声と、人間の甲高い声が聞こえてくる。
真ん中の人間はどうしたのだろうか。
なんとなく良くないってことは分かるが、ちゃんとは分からない。
おれぐらいの猫でも分からないことは多い。
特に人間のことは分からない。
おかしな生き物だと思う。
また、あくびをする。
目の前の海に人間はいない。
夏は泳ぎにきた人間の姿を毎日見かけていたし騒いでいる人間もいたが、しばらくは静かな日々が続きそうだ。
婆さんは少し寂しいと言っていたが、おれはこっちのほうが好きだ。落ち着く。
「じゃあねー!おばちゃん!」
店から人間が出てきた。
そのまま走り去るかと思ったが、おれの姿に気が付いてこちらへと向かってきた。
また撫でまわされるのかと思ったが、人間はおれの前にしゃがみこんだだけで何もしない。
「死なないよね。大丈夫だよね」
人間からそんな小さな声が聞こえた。
そこで初めて、ああ、あの真ん中の人間は死ぬかもしれないのかと気が付いた。
目の前の人間はしばらく動かなかったが、急にへらへらと笑いながら立ち上がった。
「もうダメよ、あたし!かわいいのが台無しじゃん」
そして、また人間は自分の頬をばちばちを叩いて、おれに”またね”と手を振った。
仕方なく、にゃーと返してやると人間は目を丸くした。
「え!今、またねって返してくれたよね!えー、嬉しい。ナギちゃんとハヅキ姉ちゃんに自慢しよ!」
人間はいつも通り、甲高い声でそう言いながら去っていった。
その声に店の奥にいた婆さんも出てきて、人間の背中を見送る。
未だにこちらを振り返って、手を振ってくる人間に婆さんは手を振り返していたが、やがて弱々しく溜息をついた。
「駄目ね。私ったら。なんて返したらいいのか分からなくなってしまって……」
婆さんのその言葉の意味はよく分からなかったが、おれはさっきと同じくにゃーと返してやった。
====================
そして、またあっという間に秋は終わり、今はもう冬だ。
どうやら、人間たちの間ではくりすますという行事があるらしく、ササキ商店の中も、くりすますのなにかが売られている。
くりすますは人間にとっては楽しいものらしく、この前店にきた、あの人間たちも浮足立っているように見えた。
ただその時にも、真ん中の人間はいなかった。
潮風が冷たいこの季節は、まあまあ好きである。
季節というよりは、すとーぶが好きだ。
これはあったかい。良いものだと思う。
もうすっかり夜だが、婆さんはまだ店を開けっ放しにしている。
開けたままということを忘れているのかと思いきや、そういう訳ではないらしい。
婆さんはいま店続きの自分の家でなにかしている。もうそろそろ婆さんも寝始める時間だ。
客は来ないだろうが、店番ぐらいならしてやろうと、おれは店の中で丸まったまま外を眺める。
すると、一人の人間が店の中を覗いてきた。
ああ、大きい方の人間だ。真ん中のと小さいのはいないようで、一人で店の前をうろうろしている。
何か買いに来たのかと思ったが、人間はなかなか入って来ない。
なにをしているのだろうか。
名残惜しいが、すとーぶから離れて人間に近づく。
外に近づくにつれて寒い。
戸の向こうで立ち尽くしている人間を見上げるが気づかない。
やれやれ。
とんとんと前足で戸を叩くと、人間は目を丸くしておれを見た。
「あ、みけ……」
人間のこもった声が聞こえる。
人間は戸を開けると、おれの前にしゃがみ込んで、おれの頭を一度撫でた。
「おばちゃんは?」
そんなことを聞いてくるが、人間はそこから動かない。いつもなら、店の奥へ向けて大声で婆さんを呼ぶのに今日は静かだ。
面倒くさいな。
おれはするっとその手をよけて、婆さんの元へ向かう。店続きにある婆さんの住処は小さい。
なにかやってる婆さんの後ろ姿に向けて、おれは人間が来ているぞと、にゃーと鳴く。
「なあにー?お腹減っちゃったの?」
婆さんが手を止めて振り返りそんなことを言うので、おれはついて来いと店の方へと歩いて見せた。
婆さんが、”ああ、お客さんね”と呟きながらついてくる。
店に戻ると人間は同じ場所でしゃがみこんだままだった。
婆さんもそれに驚いたのか、足をピタっと止める。
「ハヅキちゃん…?」
そう呼びかける婆さんの声にも何も反応しない。
だが、よく見ると人間は震えている。
ずずっという音が人間から聞こえたのと同時に、婆さんが人間の方に手を乗っけた。
「ねえ、お腹空いてない?」
その言葉にやっと人間は顔を上げた。
「あのね、夕飯おでんにしたのよ。寒いし、そろそろ食べたいなって。でも、作りすぎちゃったのよね。全然食べ切れなかったのよ」
人間は何かを言おうとしているが、どれもちゃんとした言葉にはならない。
「だから、少し食べてくれたら嬉しいわ」
そう言って、しゃがんだままの人間を手を引いて、店の奥へと連れて行った。
人間は相変わらず、何もしゃべらない。
おれは婆さんにすとーぶが点けっぱなしだぞと教えようとしたが、店の鍵も開けっ放しだということに気が付いてやめた。
仕方あるまい。おれは人間たちから少し離れた場所で、店番を続けてやろう。
ここで引き留めるのはよくないことは、おれぐらいの猫になれば簡単に分かる。
ここからなら店の入り口も見えるだろうと、おれは人間たちがいる部屋の入り口に座った。
「ハヅキちゃん、おでんだと何が好き?」
チチチッという火がつく音が聞こえる。
婆さんの質問に人間はなかなか答えない。
婆さんの前の鍋から湯気が出る頃、人間はやっと口を開いた。
「……大根」
「大根ね」
「あと、ちくわと……、」
「ちくわと?」
「……おばちゃん、もち巾着ってある?」
人間のその言葉に、婆さんはふふっと笑った。
「あるわよ」
「じゃあ、もち巾着もほしい」
「もち巾着、好きなの?」
「うん。でも、もち巾着はウミが一番好きな具材なんだ」
「そうなの」
「もち巾着ないと怒るんだよね。生意気なんだから。
それで……ナギはちくわが好きで、私は大根が好きなんだ」
「みんな違うのね」
婆さんがことっと人間の前にふわふわとした湯気が出ている皿を置く。
「ほら、食べて」
「……うん。いただきます」
人間ははふはふと一口食べると、美味しいと呟いた。
「おばちゃん、すごく美味しい」
「本当?よかった。あ、からしもいる?」
「うん。
……本当に美味しいよ。味しみしみで……」
人間はまた一口それを食べて、そして目を擦りながらまた一口食べる。
人間の目からぽろぽろと水が流れてる。人間はごしごしと乱雑に拭きながら、また食べる。
婆さんは何も言わず、ただその様子を静かに見ていた。
どのくらいそうしていただろうか。
「ごちそうさまでした」
人間はそう言って、また目を擦った。
しばらくまた黙っていたが、人間はずっと下を見ていた顔をやっと婆さんの方へ向けた。
「おばちゃん、あのね」
「なあに?」
「ナギね……」
人間はそこで言葉を切ると、息を吐いた。
「ナギね、安楽死のこと考えてるみたいなんだ」
「ナギちゃんが……?」
「本人から聞いたわけじゃないんだけどね」
あんらくし。それはなんなのだろうか。
おれでも知らない言葉だ。
「病院でも色々聞いているみたいで。部屋にね隠してあったんだ。安楽死に関しての書類とか色々」
人間はははっと笑っているのに、笑っていないみたいな声を上げた。
「ナギね、小さいときから。見られたくないものを洋服ダンスの一番下の一番奥に隠すの。
最近なかったから懐かしくなっちゃった。小学生の時が最後だったかも。あの子、周りの子よりも大人びててしっかりしてたから。
でも……、そうならざるを得なかったんだ、ナギは」
婆さんは何も言わずに人間を見ている。
「お母さんとお父さんが死んで、ナギには色々と我慢させちゃった。
あの子、まだ9歳だったのにさ。
……いつの間にか、あの子は我儘とか辛いとか嫌だとか言えない子になってたの。将来の夢とか、もっと勉強したいとか、あったかもしれないのに。
それなのに病気になって……病気になっても弱音なんて吐いてくれないし、一人で全部考える子になってて……。安楽死のことだって……」
人間はまた目からぽろぽろと水をこぼし始める。
これが”泣いている”という状態だっていうことは分かる。
でも、どうして泣いているのかは分からない。おれに分かるのは様子がおかしいということだけだ。
人間は声を上げながら泣き始めた。
こうやって泣く人間を見ることは滅多にない。もう少し小さい人間なら見るが、こいつみたいに大きい人間ではあまり見ない。
「わたしの、わたしのせいなんだ……っ。ナギにたくさん我慢させたから……っ!
ウミの面倒も、家のこともたくさん手伝ってくれたのに、私はあの子に甘えさせてあげられなかった……っ。もっとわがままを言わせてあげられたら良かったのに……っ」
そうやって泣く人間はうんと小さい人間みたいで、婆さんはそいつの頭を撫でた。
「……いつぐらいだったかしらねぇ」
婆さんが急に口を開く。
「みんなのお母さんとお父さんが亡くなってから1年経った頃だったかしら。
ナギちゃんとウミちゃんが二人でここに来たときにね、ナギちゃん言ってたのよ。
お姉ちゃんみたいに良いお姉ちゃんになるんだって」
「ナギが……?」
婆さんは笑って頷いた。
「当時は、ここに来た時にも他のお客さんにすごいね、えらいねってよく声を掛けられたでしょう?
二人の時も、甲斐甲斐しくウミちゃんの世話を焼いてるナギちゃんにね、そう話しかける人がいて」
「うん」
「でもね、大変ねって声をかける人にナギちゃんは、”大変じゃないよ”って一々言い返しに行くの。お父さんたちが死んじゃったことは悲しいけど、でもお姉ちゃんとウミがいるから大丈夫だって。
お姉ちゃんのことをたくさん助けたいし、お姉ちゃんみたいに良いお姉ちゃんになるんだって言ってたわ」
人間の目から水がまたぽろぽろ流れる。
「私ね、もうすっかりおばあちゃんだけどよく覚えているのよ。すごくキラキラした目でそう言ってたから。
いつかお姉ちゃんと一緒にお店をやるんだとも言ってたわね。ふふっ、ナギちゃんの夢は叶っているのね」
ただ震えているだけの人間の手を婆さんは握った。
「ナギちゃんはね、無理していたわけじゃないと思うの。
お姉ちゃんのことを助けたくて、お姉ちゃんみたいになりたくて頑張っただけなのよ」
「え……?」
「ハヅキちゃんだって、大変だったでしょう?二人の面倒を見るのも、お店を切り盛りするのも、きっとたくさん頑張ったと思うわ。
それをもしも、ナギちゃんやウミちゃんが”お姉ちゃんは無理をしてるんだ”って言っていたらハヅキちゃんはどう思う?」
「そんなことないよ。私が頑張りたくてそうしてただけで……」
「ナギちゃんもきっと一緒」
人間は目を丸くして、婆さんのことを見た。
婆さんはまた人間の手をぎゅっと握る。
「それを無理しているんだっていう人もいるかもしれない。でも、そんな言葉で片づけちゃいけないと私は思うし、周りがとやかく言うことじゃないわ。例え、家族でもね。
お姉ちゃんみたいを助けたい、お姉ちゃんみたいになりたいって思って頑張って、今のナギちゃんになったんだもの。
二人のために頑張ろうと思って、今のハヅキちゃんになったんでしょうし、ウミちゃんだってきっとそう。
だから、そうねぇ……、我慢させちゃったんだなんて言わないで、たくさん褒めてあげたらどうかしら。
ナギちゃんのことも、ウミちゃんのことも。
あと、自分のこともね」
人間はずっと泣きながら、婆さんの話を聞いている。
こんなに水を流していたら、カラカラになってしまうんじゃないだろうか。
「もしも、ナギちゃんが安楽死を選んだとき、止めるのか、受け止めるのか、ハヅキちゃんがどうするのかは、自分で決めるしかないのよ。
それ以外でも色んな選択をしなくちゃいけない時があると思うわ。
たくさんたくさん考えて決めなさい。みんなが後悔しない選択なんてないでしょうし、何を選んだって後悔するのが人間なんだから。
ただ、ナギちゃんがたくさん考えて、決めた選択だと言うことは忘れちゃだめよ」
「……うん」
人間は婆さんの顔を見て、こくりと頷いた。
「ふふっ、やあね。説教くさくなっちゃった」
婆さんはそう笑って立ち上がった。
また、チチチッという音が聞こえる。
「ね、もう少し食べない?泣いたら、お腹空いたでしょう?」
「うん……。
おばちゃん」
「なあに?」
「ありがとうね」
人間の変わらず震えている声に、婆さんは”いいのよ”とだけ返した。
人間はまたおでんを食べて、”おいしい”と呟く。
もう人間は泣いていなかった。
「それにしても、ハヅキちゃんはちっちゃい頃から変わらないわねぇ」
そう言った婆さんに人間はへ?と間抜けな声を出した。
「ちっちゃい頃もよく泣く子だったの。怒られたとか、転んだとかで。
でもね、泣いていても食べ物を出すとちゃんと食べるのよ。
ちっちゃい頃は、もうそれはそれはたくさん食べたんだから」
「私、そんな食い意地張ってたっけ……?」
「そうよぉ」
婆さんはあははっと、今日見た中で一番笑った。
その笑い声と、やっと明るくなってきた声を背に、おれは店の方へと戻り、すとーぶの前で丸まる。
外に月が見える。綺麗な月だなあと思った。
やがて、人間と婆さんが店の方へと出てきた。
「おばちゃん、おでんありがとう。持って帰ったら二人とも喜ぶと思う」
「いいのよ。作りすぎちゃったと思ったけど、こうするためにきっとあんなにつくったんだわ」
そんなことを話しながら、婆さんは戸を開ける。
「……みけも、またね」
人間がおれの頭を撫でる。
いつもなら避けるが、今日はいいだろう。特別に撫でさせてやる。
しばらく撫でると、人間は立ち上がった。
「じゃあ、また来るね。今度はちゃんとお客さんとして」
「私はいいのよ。いつ来ても。今度は甘いものでも用意して待ってるわ」
「ありがと、おばちゃん」
人間はいつも通りの笑顔で手を振って、帰っていった。
婆さんはさっきの人間と同じように、おれの頭を撫でる。
格好悪いが、たまには撫でられるのも悪くない。
おれと婆さんはそうして、しばらく月を見ていた。
その数日後に店に来た小さい方の人間が、お姉ちゃんが変なの、すごい褒めてくるのとわーわー騒ぎだてているのを、婆さんは笑いながら見ていた。
====================
ふわぁとあくびを一つする。
冬が過ぎ去って、あともう少しで春がやってくる。
もう既にあったかい。
冬は冬で良いが、春の方が気持ちが良い。
店から離れて、散歩をする。
たまに他の猫と出くわすが、猫づきあいは得意ではないため、あまり関わらない。
おれは一匹が似合う猫だから。
砂浜を歩いていると遠くに人影が見えた。
誰かが海辺の堤防に腰を下ろしている。
近づくにつれて、それが誰だか分かった。
「みけちゃん……?」
珍しい。真ん中の人間だ。
久しぶりに見た人間はあの時よりもうんと小さくなっていた。
人間は座ったままだ。
昔なら、おれに近づいて撫でまわしてきたのに。
「久しぶりだねぇ」
人間の声は細い。
なんだか知っているのに、知らない人間みたいで、心がざわざわする。
それが嫌で、おれは人間に近づいた。
近づいても撫でない。
いいぞ、特別に撫でさせてやってもいいんだぞと頭を擦りつける。
人間はよろよろと腕をあげると、おれの頭を数回撫でてすとんと腕を下ろした。
そうして、困ったような顔をしながら笑った。
人間の様子がおかしい。
おれは隣に座って、人間の顔を見上げた。
「いっしょにいてくれるの?優しいねぇ」
やっぱりあの人間に間違いない。
人間は何をするわけでもなく、海を見ていたがふと口を開いて
「あのね、みけちゃん。まだ誰にも言ってないんだけどね、私、死のうと思うんだ」
そう言った。
「元気で、身体がまだ少し動く間に、ちゃんとみんなにさようならと、ありがとうと、大好きだよって言えるうちに死のうと思うんだ」
死ぬというのは何となく分かる。
おれの周りの猫だって、もう大分死んでしまった。
おれは死んだことがないから分からないが、死ぬというのはいなくなるということだと思う。
じゃあ、この人間もいなくなるのか。
だから、小さくなっていっているだろうか。そのまま消えていなくなってしまうのかもしれない。
「やになっちゃうよね……。
これからは私も頑張って、お姉ちゃんもウミにも楽させてあげようと思ってたのに。
それなのに病気になって、本当に嫌になる」
泣いていないのに、泣いているみたいな顔をしながら人間はそう言った。
大きな人間が泣いている時は、婆さんがいたけれど、こいつは今ひとりだ。
婆さんはあの時、どうしていただろうか。
考えた末に、おれは人間に体をすりすりと擦りつけた。
人間は少し驚いたようにおれを見たがふにゃりと笑った。
「みけちゃんだけには言うんだけどね、正直ね辛いんだ。体も、心もしんどいの」
人間はまた腕をあげるが、おれの頭を撫でるまえにその手はぱたりと落ちる。
「今日はこっちの腕が上手に動かない。足は調子いいのにね。背中は今日も痛いや。
……どんどん動けなくなるんだ。喋ることも、歩くことも、なんにもできなくなっちゃう。
お姉ちゃんにもウミにも迷惑かけるのはもう嫌なの。きっとお姉ちゃんたちはそんなことないよって言うけど、私がしんどいの。
だから、その前に笑って楽しくお別れしたい……」
人間はそのまま、口を閉ざした。
おれは人間の隣で、海をみる。
穏やかな春の海を、人間は泣きそうな顔で見ている。
「……でも、やっぱり死にたくないなあ」
人間はぽつりと本当に小さな声でそう言った。
「お姉ちゃんとウミと、もっと生きたかった」
じゃあ、生きたら良いとは言えないんだろう。
婆さんが言っていたことを思い出す。
たくさん考えて選んだことなのだ。
「心配だなあ。
お姉ちゃんもウミも、ずっと泣いていたらどうしよう。
お姉ちゃん、がんばりすぎて体壊さないかな。
ウミも無理に明るくしようと頑張って、苦しくならないかな。
……二人とも自分のことを責めないかな」
人間は口をぎゅっとしたまま、うつむいた。
まだ少し冷たい潮風がふいてくる。
「たくさん笑っててほしいな……」
そして、また海を見た。
おれは何も言わないで地面についた手のひらに軽くのっかる。
冷たい手だ。
人間は”あったかいね”と笑った。
「笑っててほしいなって思っている人間が、悲しい顔してちゃだめだよね。
夏に死ぬまで、なるべく笑って、楽しい思い出を作らないと。
二人の記憶の中の私には笑っててほしいから。
……本当に楽しかった。私の人生はすごい幸せだった」
人間は笑顔を浮かべたまま、おれを見た。
「あのね、死ぬのは夏にしようと思うの。
私は夏が一番好きだから。夏はね、特別なんだ。
それまでは頑張らないと。応援してね、みけちゃん」
”あとね”と人間が言葉をつづける。
「みけちゃんに、おねがいがあるの」
おれも人間の方を見る。
「私が死んだら、二人のことよろしくね。
落ち込んでばっかいないで、たくさん笑って、楽しく生きてるかどうか私の代わりに見守ってて」
仕方ないな。分かったよ。
にゃあという音にしかならなかったが、人間にはちゃんと伝わったらしい。
”ありがとう”と嬉しそうに言うその顔は、いつも通りの人間の顔で、なぜだかそれが嬉しかった。
人間はしばらく海をみていたが、よろよろと立ち上がる。
「そろそろ帰らないと。
黙って出てきたから、帰ったら怒られちゃうかも」
おれはゆっくりと歩き始めた人間の後を追った。
帰る途中で、小さくなって消えてしまわないようについていってやろう。
まだ春にもなっていないのに、死んでしまったら困るだろうから。
あったかい日差しの下、ゆっくりとゆっくりと歩く。
その横にくっついて、おれもてくてくと歩く。
「みけちゃんも一緒に怒られてくれるの?」
そう言って笑う人間におれは、にゃあと鳴いた。
====================
そうして、夏が来た。
おれは定期的に、あいつの家までこそこそと様子を見に行っていた。
応援しろと言われたからには、見に行くしかないだろう。
あいつはちゃんと夏まで小さくなって消えることなく、生きていた。
そして、今日。
あの人間は死ぬんだと思う。
そんな話をしているのを聞いたから、間違いない。
だから、おれは朝からベンチの上で尻尾をぶらぶらさせて待っていた。
すると、空に魚みたいな形をした雲が浮かんでいて、その下を歩く人間の姿が見えた。
大きいのと、真ん中のと、小さいのと。
3人そろって歩いている。
おれはひょいっとベンチから降りて、その下に入り込んだ。
おれの特等席だが、今日ばかりは譲ってやろう。
「えー、どうみてもカニだよ。カニ!」
そんな声が聞こえてくる。雲の話をしているらしい。
カニではないだろう。おれには魚に見えるぞ。
「そうかなあ。お姉ちゃんには何に見える?」
「え?あー・・・、そうだなあ。いや、どっちにも見えないかも」
「想像力がないなあ」
「ていうか、カニとクジラって大分違くない?」
3人は楽しそうに話している。
真ん中のもちゃんと笑えているようだ。
「ほら、もう着いたよ。アイス選びな。」
大きいのがそう言うと、小さいのが”わーい”と声を上げた。
「おばちゃん、アイスキャンディー3本ちょうだい。」
大きいのが店の奥にいる婆さんにそう声をかけた。
「……ウミ、バニラすきだったけ?」
「チョコの方が好き。でも今日はバニラの気分なの。」
ベンチに座りながら話す声が聞こえる。
ベンチの下から少し体を出すと、真ん中のと目が合った。
「あ……、みけちゃん。」
「え?あ、こんなとこにいたんだ。」
小さいのがベンチの下を覗き込んできた。
「お久しぶりだね、みけちゃん」
真ん中のその声に、にゃーと挨拶をかえす。
「にゃーっだって。お久しぶりーってことかな?」
「ふふっ、そうかも」
その通りである。
なんだ、小さいのもわりと話の分かるやつらしい。
「はい、二人とも。あ、みけ。相変わらず太々しい可愛い顔をしてる猫ちゃんだねえ」
そんな失礼なこと言いながら大きいのは頭を撫でてきた。
太々しい可愛い顔というのは違うだろ。
おれはかっこいい猫だぞ。
3人はベンチに座りながら、なにやら楽しそうに話している。
しばらくして、顔を出すと小さいのが真ん中の膝に頭をのっけていた。
真ん中の人間と目が合うと、人間はにっこりと笑った。楽しそうな、良い笑顔だと思う。だったら、きっと大丈夫だろう。
約束ちゃんと覚えてるからなと、おれはまた小さくにゃーと鳴いた。
そして、この夏の日に人間は死んだのだった。
===========================
「おばちゃーん!!アイスキャンディー3本ちょうだい!!」
「3本ともバニラ!」
そんな大きな声が店に響く。
見てみると、大きいのと小さい人間が来ていた。
本当はもう一人いたのだ。
そいつはもう死んでしまった。
死んだとき、大きいのも小さいのも、そして婆さんも、落ち込んで落ち込んで仕方がなかった。
もう二度と笑わないんじゃないかと思ったぐらいだ。
だけど、今は笑っている。
笑いながら、婆さんとなにか話している。
人間たちは、婆さんからアイスキャンディーをうけとって店からでてくると、おれのことを撫でまわしてきた。
逃げずにそれを受け入れる。なぜか、人間はおれを撫でると嬉しそうにするのだ。
だったら、まあいいかと思った。格好悪いが仕方ない。おれはすごい猫だから許してやろう。
人間たちは満足すると、手を振って去っていった。
その向こうには夏の空と海が広がる。
案外、夏もいいものだ。
遠ざかっていく人間の背を見送る。
いつの間にか婆さんも店からでてきて、おれの隣に座った。
「今日の空は青いわねぇ。夏空だわ」
そんなことを言いながらおれの背中を撫でた。
ちらりと婆さんを見る。
婆さんも随分と小さくなったような気がする。
おれも気づかないうちに小さくなっているのかもしれない。
そうして、どんどん小さくなって死んでいく。
でも、まだ見ててやろう。
おれはすごい猫だからな。尻尾が二又に分かれるまでは見てやってもいい。
風鈴がちりんとなる。
おれはあくびをして丸まった。
耳を澄ますと、まだ人間たちの楽し気な声が聞こえる。
いつか死んだとき。
死んでどうなるかは知らないが、もしもあいつに会えることがあれば教えてやろう。
おい、人間。
あいつらは、たくさん笑って、楽しく生きているぞって。
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