勿忘の花 -SideStory-

こちらは勿忘の花のサイドストーリーのページになります。

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SideStory1 「勿忘の夢」

勿忘草。


“私を忘れないで”という願いを、“真実の愛”という意味を持つ花は、小さな墓石を彩るように咲いていた。

ある男の手により植えられた勿忘草は、今日も静かにその花を風に揺らしている。

勿忘草を植えてしまうほど、貴女のことを思っているのだと、かつての歌へこたえを返すように。



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“勿忘草植うとだに聞くものならば思ひけりとはしりもしなまし”



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初夏。

終りゆく春の匂いが薄れ、どこか夏の始まりを感じるようになった。

用事を済ませ、日差しが柔らかくなってきてから帰宅した宗一が戸を開けると、奥からぱたぱたと足音が聞こえてくる。


「宗一さん、おかえりなさい。」


柔らかい、宗一の生きてきた中ではほとんど聞いたことのない響きをもったその声に宗一は素っ気なく“ああ”とだけ返事をし、顔を見ることもなく通り過ぎた。

夫婦になってふた月。


宗一は妻の顔をまともに見ることができなくなっていた。



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宗一が妻となる女と初めて会ったのは数カ月前、源田家で行われた晩餐会でのことだった。


源田家は宮本家の足元にも及ばない家である。

それなのにも関わらず繋がりを持つのも悪くないと考えた父に連れられ宗一は出席した。

父の考えには余程のことがない限り反論しないが、既に帰りたくて仕方がなくなっていた。

だが、帰るわけにもいかず喧騒から逃れるために外で出て、自分の吐き出す白い息を見ていたのだ。


冷たい外気に触れぴんっと張りつめていた背筋が緩み、そのまま壁に凭れるように腰を降ろした。

質のいい洋装に身を包んだ自分が人の家でこのように座っていることが何だか滑稽で面白く思わず鼻で笑ってしまう。

父に見つかればえらく怒られ、他人に見つかれば面白おかしくまた違う他人へと伝えられるのだろう。

人と言うのは変わったものを嫌うくせに、その話をするのは好きなのだ。


だが、もしそうなったとしても構わないとそう思い始めていた。

疲れたのだ。

これがあの宮本家の次男か、とそんな目で見られるのが。


自分の存在が周りから疎まれているということを宗一は当たり前のことのように分かっていた。

物心がついたころには自分が妾の子であることも、自分がどれだけ異母兄やその母親から憎まれているのか。

実の母親の手によってではなく、生まれてからすぐ宮本家の本家で育てられたのだ。赤子の頃からそんな視線に晒されていたのだから無理もない。

実の母親とは月に一度会うのみであった。

父よりも随分と歳の離れた貧しい若い女で優し気な雰囲気を纏ってはいるが、どこか危うさを持ち合わせているようなそんな人であった。

会うたびに宗一のことを可愛がってはいたが、宗一を通して父の姿を見出そうとしていることは幼い宗一も感じており、母の前でも気が緩むことは一度もなかった。


そんな母は宗一が7つの頃に亡くなった。


母の死に際を宗一は今でも鮮明に覚えている。

死ぬその時まで姿を現さない父の名を呼び続ける母の姿があまりにも悲惨だったからだ。

母は父を愛していると言っていた。愛してるからこそ、決して幸せな結末にはならないだろうと分かっていながらも宗一を産み落とした。

その子供がどのような人生を辿るかなんて気にもしないで。

母の姿を眺めながら、どうしようもない嫌悪感を覚えた。

愛などというものに突き動かされた哀れな母はそのまま呼吸を止めた。

父は母の前に終ぞ姿を見せることもなかった。

母はただの一度も宗一のことを見ることもなく死んでいった。


ああ、気持ち悪い。

母のあの乞うように父の名を呼びつづける声が思い出されて、宗一は乱雑に頭をかいた。


あの日から必死に生きてきた。

妾の子だからと馬鹿にされぬよう勉学に励み、周りよりも長男よりも優秀であろうとした。

家業に関してもそうだ。父の仕事を学生の頃から理解し、対等に話せるだけの知識を身につけようと努力した。

ただ自分だけを信じてきたのだ。

優しい言葉を投げかけてくる大人も、慰めようとしてくる同年代の人間のことなど振り向きもせず、自分だけを信じてきた。

他人を信じることも、他人からの情も、他人への情も必要ない。

愛など以ての外だ。

母の様な、あんな哀れな存在に成り下がりたくはない。

その甲斐あってか、宮本家の次男はたいそう賢いそうだ、宮本家の次期当は長男よりも次男の方が良いのではないか、という声が聞かれるようになったのだ。

それでも、“妾の子。それも貧しい女との子供”という言葉はついて回る。

これからもずっと。

得体の知れない不快さが体内に巣くう。

中から漏れ出る人々の話し声と笑い声に、まだまだ帰れそうにないことを察し、宗一は体内に巣食う不快さを吐き出そうと息を吐いた。

薄く酒の匂いをおびた呼気が冷たい外気に溶ける。


「あ、あの・・・」


ふいに女の声が聞こえて、宗一は瞬時に立ち上がり佇まいを正した。

声の主は何かをのせた盆を手に、少し遠くに立っていた。

宗一はその女に気が付きながらも視線をやるだけであった。

それをどう捉えたのか、女は少し嬉しそうに笑いながら宗一に近づくと、盆に載せた湯呑を差し出す。


「こちらどうぞ。」


受け取らない宗一に女は「お茶です。」と付け加えた。

受け取るまで立ち去りそうにもない女の姿に、宗一はうんざりとした表情を浮かべつつ湯呑を手に取った。

指先にじんわりと温度がうつるのを感じ、思いのほか自分の体が冷えていたことを知る。


目の前の女の姿をちらりと盗み見る。

着物にたすきを掛けたその出で立ちからして使用人だろうか。

だが、先程まで晩餐会で給仕に当たっていた者たちとは恰好が異なる。

源田家の当主が自慢気に西洋の文化をどうのこうのと話していたが、他の使用人は洋装だったのだ。


「大丈夫ですか・・・?」


女の気づかわし気なその声に思考が途切れた。

何を、とは言っていないが、恐らくここで座り込んでいるのも見られていたのだろう。


「今日は冷えますね。」


女はお盆を持った手をもう一方の手でさすりながらそう言った。

何も返さない宗一に困ったような笑みを浮かべる。


この女は一体、なにがしたいのだろう。

他の女のように宮本家の子息である自分と何かしらの繋がりを持ちたいのか。

それにしてはあまりにも媚びていない。

宗一には目の前の女が何か企てているようには見えなかった。

その人の良さそうな笑みと柔らかい声音にとてつもない嫌悪感が沸き上がる。

まだ何かしらの考えがあって近寄ってくる人間の方がましに思えた。


「使用人如きが私に話しかけるな。」


そう返すと女はびくっと肩を震わせ、謝罪の言葉を口にする。

それでも立ち去らない女に宗一は苛立たしさを隠すこともなく、湯呑に入った茶を一気に流し込むと粗暴な動作で盆の上に叩きつけた。

それにも女は肩を震わせたが、女は変わらずそこに立ち続ける。


冷たい風が二人の間を抜けていく。

女の荒れた指先にはよく染みそうだなと宗一はぼんやりとそう思った。


宗一は冷たく女を見遣る。

「あの宮本家の次男がこんなところで醜態を晒しているのを見れて嬉しいか?」


その問いに女は慌てたように首を振った。違いますと否定し何か言おうと口を開いたが、それと同時に遠くの方から呼びつける様な声が聞こえてきた。


「あ・・・っ」


女は“今、向かいます。”とその声の主に返事を返すと、宗一に頭を下げてその場を立ち去っていった。

女は何度かこちらを振り返っていたが姿が見えなくなる。

それと入れ違いに他の使用人がこちらへと向かってきた。

使用人は恐る恐るといったように“どうされましたか?”、“なにかご無礼を?”などと宗一に声をかけてきたが、それを適当にあしらいながら再び会場へと戻る。

あの女がぺらぺらと話せばあっという間に話は広がるだろう。一体どんな尾ひれがついたものか。


だが、噂話は広がることなくあの晩餐会から数日後のこと。

その日は冬にしては暖かい日だった。


「源田フミと申します。」


あの女は再び姿を現しこう名乗った。


源田フミ。

源田家の末娘。

その話は何度か聞いたことがあった。

源田家にとっては予定外の子供であり、それも出来の悪い娘。そのせいか冷遇されているらしいと。

だが、あの夜のことを考えると噂以上に碌な扱いを受けてこなかったらしい。


その女がなぜここに?


どこか困惑した表情を浮かべる女、嬉しそうなその父親である源田家当主、にやにやと意地の悪そうな笑みを浮かべる兄。

そして穏やかな笑みを浮かべる父がゆっくりと口を開いて宗一にその答えを言い放った。


源田家の令嬢であるこの女を宗一は娶ることになったのだ。


源田家の娘を宮本家の子息の妻として迎え入れる。

次期当主である長男でなく次男の妻ではあるが、それでも普通に考えればおかしな話だ。

あまりにも釣り合いが取れていないのだから。

何度もお礼を言う源田家の当主にえらく満足げな長男の顔を見て宗一は何となく察しがついた。

どうやらこの縁談を持ちかけたのは宮本家のようだ。

厄介者同士を結んでまとめて追い出したいのはどちらの家も一緒で、源田家としては宮本家と繋がりができたことを周りに知らしめることができる。

源田家にとってはこれ以上ない提案だろう。

恐らく最も意欲的にこうなるように取り組んだのは兄なのだろうが。


宗一は俯いたままの女をじろりと睨んだ。


宮本家には到底及ばない家の娘との婚姻。

そんなことは宗一にとってどうでも良かった。

兄の考えだとしても、これが宮本家当主の下した決断ならば何も言わずに受け入れるのが最善だろう。

そもそも妻が格下の家の出だろうと自分には関係ない。今までと変わらず自分を虐げてきた、自分を奇異の目で見てきた者に負けぬよう生きるだけだ。

だだ、目の前にいる女に対しての嫌悪感は膨れ上がる一方だった。


この女は不当な扱いを受け続けてきただろうに己の待遇に嘆くことも、抗うこともなく、ただ受け入れて生きてきたのだろう。

あの日だって使用人と間違えた宗一に何も言わなかったのだ。

女が浮かべた笑みと優し気な声音を思い出し、宗一は目の前で小さくなって座る女を睨みつける。

上等な着物を纏いながらも、その袖から見える荒れた指先があの女であるということを何よりも証明していた。


「お似合いだな。いい夫婦になるだろう。」


そんな兄の言葉を聞いた瞬間、宗一の体は勝手に動いていた。


この女と似ている?

そんなはずがない。

そんなことを言われてたまるか。

自分はこの女のように諦めなかった。


兄の胸ぐらを掴む。

下品に緩んだ口から間抜けな声が聞こえた。


負けぬようにと生きてきた自分と似ても似つかない存在だ。

この女は諦めたんだ。

自分とは違い、正しい血筋だというのにその不当さを受け入れ、ああやって笑顔を浮かべ柔らかな声で話す女が気持ち悪くて仕方がない。


「宗一。」


父の声が部屋に響く。

低く威圧感のあるその声に、宗一は兄から手を離した。

咳き込む兄を気にすることなく、父は源田家の当主と女に謝罪を述べその場はお開きとなった。



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そこからはとんとん拍子に事が進んだ。

碌に会話をすることもなく祝言を終え、用意された家に二人で住み始め、気づけば夫婦になりふた月が経とうとしていた。


着替えを終えて戻ると、縁側に座って庭を眺めているフミの背中が見える。

フミは宗一の存在に気付いたのか、こちらに顔を向けた。


「お疲れさまでした。」


お茶を淹れますねと立ち上がろうとしたフミを制し、宗一は何も言わずただ立ち尽くす。

使用人を雇っていない二人だけの屋敷はひどく静かで落ち着かない。


「宗一さん、お庭のお花咲いたんですよ。」


「そうか。」


フミの言葉に素っ気なく返事を返しながら、少し距離を空けて隣に腰を降ろす。

フミが使っている軟膏の匂いがふわりと風に運ばれて鼻孔をくすぐる。

庭では名も分からない花が咲いていた。

しばらくそうして花を見ていたが、ふいにフミが何かを差し出してきた。


「伊勢物語、少しずつ読み始めたんです。」


それは少し前に宗一がフミに買い与えた一冊の本だった。

阿蘭陀書房から出された伊勢物語。

今の言葉に訳されており、挿絵も載っていることから読みやすいと思い買ったのだ。


「ありがとうございます。私が本を読みたいと話したからくださったんですよね。」


「文字も簡単に読めない女を妻にしたくはないのでな。」


心底うれしそうに話すフミに宗一は腹立たしさを隠すことなくそう言った。

フミは小声で“ごめんなさい。”と返すと口をつぐんだが、またしばらくすると宗一の名を呼ぶ。

そして、またぽろぽろとどうだって良いようなことを話すのだ。

その声がいつもいつも優しいのが宗一には腹立たしくも、恐ろしくもあった。


「お前は一人ではなしていて楽しいのか?」


フミとは違う相変わらず何の感情ものっていない冷たい声音がそう問うと、フミは“はい”とそう返し、こちらに手を伸ばしてきた。

贈った軟膏が効いたのか、あの日と比べて滑らかになった暖かな指先が宗一の手をゆるく握る。


「私は宗一さんと一緒にいられるだけで嬉しいですし楽しいです。

私は宗一さんのことを愛していますから。」


その言葉に宗一は思わずフミの顔を見る。


そうだ。

こうして真っすぐこちらを見て笑うフミが恐ろしくて仕方がなかったのだ。

まるで、愛情を込めているかのようなそれらが宗一にはどうしようもなく恐ろしかった。

宗一は妻となったフミの顔をろくに見ることができなくなっていた。

見てしまえば最後、フミの抱いているものが愛であるといつか認めてしまうだろうから。


頭に母の姿が浮かぶ。


「やめろ・・・っ。」


宗一はフミの指先から手を力任せに抜き取り、


「愛しているだと?笑わせる。お前の愛などただの勘違いにすぎない。」


こう言い放ったはずだ。

あの時は。

なのに今はこの手を振りほどくこともなく、


「・・・そんなこと分かっている。」


代わりに出てきたのはそんな掠れた言葉だった。


本当は分かっていたのだ。

フミが自分を愛していることなど分かっていたのだ。

自分の感情さえ隠し続け、やっと目を向けたときにはもう伝えることさえできなくなっていた。

ずっと感じていたフミへの嫌悪感も苛立ちも全て、感情に名前を付けず目をそらした結果生まれたものなのだ。


フミは何も言わずただ優しく笑ったまま、宗一の手を少しだけ強く握る。

ああ、今自分はひどく都合のいい夢を見ているとそう思った。


「宗一さん。」


フミが自分の名を呼ぶ。

ふと目を庭に向けるとさっきまで咲いてなかった勿忘草の花が咲いていた。


「勿忘草植うとだに聞くものならば思ひけりとはしりもしなまし」


柔らかく微笑みながらフミはそう詠った。


「ちゃんと分かっていますよ。」


勿忘草が風に揺れる。


“私を忘れないで”という願いを、“真実の愛”という意味を持つ花の前でフミはくすぐったそうに笑いながら


「あんなに咲かせるんだもの。」


幸せそうにそう言った。



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爽やかな、どこか夏を感じさせる風に促されて目をゆっくり開ける。

どうやらいつの間にか眠ってしまったようだ。

風に撫でられて青い小さな花が揺れている。

勿忘草が咲くのはこれで何度目だろうか。


「咲かせすぎたか。」


宗一は小さな墓石を彩るように咲く勿忘草を見ながら苦笑した。

どうやら愛というものは思っていたよりも悪いものではなかったが、厄介なものであるということは合っていたようだ。


“愛でなければ、君のその感情はなんて名前なんだ?”

あの医者に問いに今なら答えることができる。

確かにこれは愛であると。


縁側から腰を上げ、墓石の近くに腰を降ろし、日差しに目を細めながら“もう夏だな”と小さく墓石に話しかけた。

午後になって幾分か柔らかくなった陽光を浴びながらとろりとした睡魔に包まれ、小さな墓石に寄り添うようにして目を閉じる。

意識が落ちる瞬間、くすぐったそうに笑うフミの顔が浮かんだ。

言葉にしたらどんな顔をするのだろう。


「はやく見たいものだ。」


最期に呟かれた言葉が優しく響く。

勿忘草は二人を彩るようにひっそりと咲きこぼれていた。



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