勿忘の花
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*この作品に関しての注意
この作品は『伊勢物語』のおのがよよの話と和歌を取り入れています。
和歌など読みにくい箇所がいくつかありますので一度、前読みなどすることをお勧めいたします。
登場人物
・宗一(そういち)(♂)
20代半ば~後半。宮本財閥の次男。フミとは家の都合で婚姻関係を結んだ。愛を忌避している。
・フミ(♀)
20代前半。宮本家の足元にも及ばない源田家の次女であったが、宗一の元へ嫁いだ。病で倒れ入院している。
・真谷(まみや)(♂)
30代半ば~30代後半。人気のない場所で診療所を開業している怪しい医者。
・久子(♀)
30代前半。診療所で看護婦として働いている。
『勿忘の花』
作者:なずな
URL:https://nazuna-piyopiyo.amebaownd.com/pages/6229994/page_202207011410
宗一(♂):
フミ(♀):
真谷(♂):
久子(♀):
サイドストーリーがあります。お読みになる際は本編を読んだ後にお読みください。
本文
宗一M:「勿忘草。
明治時代に西洋から輸入された青い可憐な花を咲かせる植物。
大正となった今でも、日本には自生していない花である。
しかし、ある山奥でその花はひっそりと咲きこぼれていた。
今日も、“忘れないで”という願いを、“真実の愛”という意味を持つ花は、静かに風に揺られる。
かつての歌に、こたえを返すように。」
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フミ:「いまはとて勿忘草のたねをだに人の心にまかせずもがな」
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(フミの病室を訪ねる宗一)
(窓の外へ体を乗り出しているフミ)
宗一:「・・・おい、なにをしている?」
フミ:「あ・・・宗一さん、気が付かなくてごめんなさい。
いやだわ、ずっと眠っていたものですから目が腫れてて・・・。」
宗一:「そんなことはどうでも良い。何をしているのかと聞いているんだ。」
フミ:「ああ、中庭を見ていたんです。」
宗一:「中庭・・・?」
フミ:「はい。看護婦さん・・・、久子さんから聞いたのですが、もう少しで花が咲くらしくて。」
宗一:「・・・そうか。」
フミ:「・・・ひと月ぶりですね。来てくださって嬉しいです。」
宗一:「医者から呼び出されてな。そうでもなければ、わざわざお前の見舞いになんか来るわけないだろ。」
フミ:「ごめんなさい・・・。お忙しいのに、こんなことになってしまって。」
宗一:「全くだ。これから西洋との取引も増えて益々忙しくなるというのに、こんな面倒ごとを増やすとは。
嫁いで一年にも満たない嫁が病に倒れたと知られたら、何を言われるか分かったものではない・・・。
すぐに医者に診せていればこんなことにはなっていなかっただろうに。お前を嫁に貰ってからは本当に碌なことがないな。」
フミ:「・・・本当にごめんなさい。」
宗一:「・・・まだ花も咲いてない中庭を見て楽しいか?」
フミ:「あ・・・はい、どんなお花が咲くのかと、考えているだけで心が弾みます。」
宗一:「・・・そうか。」
フミ:「勿忘草。」
宗一:「・・・。」
フミ:「勿忘草と言う花だそうです。西洋の花で、最近日本に伝わったものだとお聞きしました。
一緒に見ることができたらいいですね。」
宗一:「・・・花など興味がないし、そんな身勝手な名前を持つ植物が綺麗な花を咲かせるとは思えないな。」
フミ:「忘れること勿れ(なかれ)・・・。西洋での伝説が名前の由来になっているそうですよ。
・・・宗一さんは忘れないでと請われるのはお嫌ですか?」
宗一:「ああ。そう願われたところでいずれ忘れるからな。男女間であればなおさら、約束したところで忘れるのが落ちだ。」
フミ:「伊勢物語の“おのがよよ”みたいに・・・?」
宗一:「“いまはとて“忘るる草のたねをだに人の心にまかせずもがな”
忘れないでほしいなどと詠い合いながらも、結局は互いに新しい恋人ができて疎遠になるとは本当に馬鹿らしい限りだ。」
フミ:「私はそんな和歌を遺して死んだりしませんからね。」
宗一:「・・・なんだ?辞世の句でも詠むつもりか?」
フミ:「もういつ死んでもおかしくないのなら、そろそろ考えないといけませんね。でも、そういった歌は詠みませんよ。だって忘れてほしいんだもの。」
宗一:「・・・お前に歌が詠めるとは思えないがな。」
フミ:「やっぱり字を読むのも覚束ない私には難しいかしら・・・。」
宗一:「そんなもの詠まなくてもいずれ忘れるに決まっているから安心しろ。
私はお前をどうとも思っていないのだから。」
フミ:「・・・知っていますよ。ですが、私は」
宗一:「お前が私を愛しているなどとほざくのは勝手だが、それを私に押し付けるな。お前の愛など所詮ただの勘違いにすぎないのだから。」
フミ:「・・・。」
宗一:「そんな浮ついた感情をを抱えるから人は堕落する。私は進んで母のようになりたくはない・・・。」
フミ:「宗一さん・・・。」
宗一:「私はもう帰る。仕事が残っているからな。」
フミ:「・・・分かりました。お気をつけて。」
宗一:「・・・。」
フミ:「宗一さん」
宗一:「・・・なんだ?」
フミ:「私の愛は本物ですからね。ちゃんと私は宗一さんを愛していますからね。」
宗一:「・・・。」
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(診療所の廊下)
久子:「・・・あら、もうお帰りになられるの?今、お茶をお持ちしようかと思っていたのだけれど。」
宗一:「ああ、用も済んだからな。」
久子:「そう・・・。次はいつ頃に?」
宗一:「十日後にまた来る。」
久子:「十日後?随分とお早いのね。きっとフミちゃんも喜ぶわ。」
宗一:「・・・あれはもう何も思わないはずだ。次に会うときにはもう忘れているらしいからな。」
久子:「忘れているって・・・。まさかあの薬を・・・?」
宗一:「・・・。」
久子:「どうして・・・?そしたらフミちゃんは」
宗一:「どうしても何も、死なれたら面倒だからだ。それしか理由はない。」
久子:「でも貴方とフミちゃんは夫婦でしょう?」
宗一:「夫婦だから愛し合っているとでも?私もあれも家の都合で婚姻関係を結んだまでだ。
忘れられたところで何の不利益もない。」
久子:「そんな・・・」
宗一:「私はもう帰る。お前も早くあれの元に行ったほうが良い。白い顔して寝ずに立っていたからな。」
久子:「・・・本当にそれでいいの?」
宗一:「無論だ。悪いことなどあるものか。
・・・良いに決まっている。」
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(診察室でなにやら作業をしている真谷)
(そこへ久子が駆け込んでくる)
久子:「先生・・・っ!!」
真谷:「ん?どうしたんだい?そんなに慌てて。何だか珍しいねぇ。久子さんが息を切らしているだなんて。」
久子:「どういうことですか・・・?!」
真谷:「どういうこと、とは?」
久子:「フミちゃんにあの薬を飲ませるおつもりなのですか・・・?」
真谷:「・・・なんだ、聞いてしまったのか。僕から話したかったのに。
実はひと月前、彼に薬の話をしたんだ。ほら久子さん、お子さんが熱を出して来られなくなっちゃったでしょう?ちょうど、その日にね。」
久子:「なぜですか・・・?どうして宮本様は・・・?」
真谷:「彼は即答だったよ。薬を飲ませるってね。
・・・君はいなかったから知らないだろうけどさ。」
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(ひと月前、診察室で向き合って座る宗一と真谷)
真谷:「随分と久しいね。自分の奥さんだというのに冷たいじゃないか。」
宗一:「余計な世話だ。
・・・それにしても相変わらずこの病院には患者がいないな。潰れるのも時間の問題なのではないか?」
真谷:「その心配はないよ。これでも近所のご老人たちからは慕われているんだ。それに今は金払いの良い患者さんがいるもんでね。
まあ、患者さんというよりはそのご主人なんだけど・・・。ね、宮本家次男の宗一君。」
宗一:「対価を払っているだけだ。」
真谷:「それに潰れたら困るのは君の方だと思うけどなあ。僕ほど信頼できる医者はいないだろう?
他の医者なら間違いなく宮本家の関係者にこのことを話すと思うよ。みーんな宮本財閥との繋がりが欲しいだろうからね。」
宗一:「・・・。」
真谷:「まあ、こんな話はどうでもいい。ところで、相変わらず、大通りは煩いのかい?」
宗一:「・・・ああ。民権運動がな。」
真谷:「大正がどんな時代になるのかはさっぱり分からないけど、賑やかそうで何よりだよ。
まあ、僕はそういった騒ぎは苦手だからなるべくなら避けて通りたいものだけどね。」
宗一:「おい、世間話は他でやってくれ。」
真谷:「仕方ないなあ・・・。じゃあ、本題に移ろうか。
君の奥さん・・・フミさんの様態だが、前から言っている通り手の施しようがないところまで悪化している。
簡単に言えば、いつ亡くなってもおかしくない状態だ。」
宗一:「・・・。」
真谷:「でも1つだけ、フミさんの病を治す方法がある。」
宗一:「なんだと?手の施しようがないと今言ったばかりだろう。」
真谷:「これだよ。」
宗一:「粉・・・?」
真谷:「君は勿忘草という植物を知っているかい?」
宗一:「知らないな。そういったものには興味がない。」
真谷:「少し前に西洋から輸入されたものでね、青い可愛らしい花を咲かせる植物なんだよ。まだこの国では自然には根づいていない花だ。花詞は“真実の愛”らしいよ。
西洋でも“私を忘れないでくれ”という意味を持つ名前が付けられていて、それが訳されて勿忘草と呼ばれるようになった。」
宗一:「それがなんだと言うんだ?」
真谷:「これはね、そんな植物から作られた薬なんだ。
西洋では勿忘草の種を薬として扱う地域もあるんだけど、この薬は花から作られる。
この薬を作り出すために僕は元いた病院を辞めて、こんな小さな診療所に引っ込んだ。僕の努力の結晶とも言えるね。」
宗一:「・・・こんな粉薬で治るものなのか?」
真谷:「ああ、治るよ。フミさんと同じ病の患者にも一度投薬したことがあるが、いまではピンピンしてる。
でも、薬には副作用が付き物だ。特に大きな効果を得られるものはね。」
宗一:「副作用だと?」
真谷:「忘れること勿れと書いて勿忘草。
それなのに、服薬すると忘れてしまうんだ。最も愛している人の記憶をね。」
宗一:「・・・。」
真谷:「“私を忘れないで”という願いを持つ花であるのに、それとは相反する副作用だろう?皮肉なものだよ。
この薬を飲めばフミさんの病は治る。
ただフミさんは・・・君に関する記憶をすべて失うことになる。」
宗一:「・・・私の?」
真谷:「ああ。フミさんから最も愛しているのは君だと聞いたからね。
まあ、絶対そうだとも言い切れないんだけど、嘘を吐いているようにも見えなかったし間違いないよ。」
宗一:「・・・その記憶が戻ることは?」
真谷:「恐らくない。
思い出せないのではなく、全て無かったことになるんだ。
それと失くした記憶に関して触れることもできない。酷い混乱を引き起こしてしまうからね。
だから君は、自身が夫であることをフミさんに打ち明けることはできないんだ。」
宗一:「・・・・・・。」
真谷:「でも、効能に関しては、自分で言うのも何だが素晴らしい薬だ。死の淵に立っているような患者さえも治せるんだから。
・・・まあ、にわかには信じがたい話だろうし、薬代は後払いでも良いよ。」
宗一:「やけに親切だな。気味が悪いぐらいに。」
真谷:「僕は医者だからね。人の命を救うためなら親切にもなるさ。」
宗一:「・・・お前は死にかけの患者全員に、この薬を飲むか聞いているのか?」
真谷:「患者ではなくて、忘れらてしまう相手にかな。今みたいにね。
ああ、でも全員ってわけじゃないよ。ほら、いつもの看護婦さんいるでしょう?久子さん。」
宗一:「ああ・・・。」
真谷:「今日はお休みでいないから丁度良かったんだけど、彼女はこの薬を良いように思っていなくてね。
怒らせると怖いからあまり使わないようにはしているんだ。
それと、口が堅そうな人にしか言わない。噂が広がると面倒だからね。わかるだろう?
・・・で、今のところはどっちに傾いているんだい?」
宗一:「傾くも何も、飲ませるのに決まっているだろう。」
真谷:「ああ、そう答えるだろうと思っていたよ。それが良いに決まっている。僕が同じ立場でもそうするさ。
愛する人の死よりも恐ろしいことはないのだから。」
宗一:「莫迦を言うな。私はあれに死なれると面倒なだけだ。」
真谷:「おや、君はフミさんを愛してはいないのかい?」
宗一:「生憎、私は浪漫主義ではないのでな。家同士の繋がりのために婚姻関係を結んだまでだ。
でなければ、誰があんな、格別器量が良い訳でもなければ、秀でたものも何もない女を妻として迎えるか。」
真谷:「でも、フミさんは君のことを愛している。」
宗一:「あれはただ勘違いをしているのに過ぎない。」
真谷:「勘違い?」
宗一:「今まで碌な扱いを受けていなかったからな。源田家の人間ではあるが、予定外の子供。しかも女だ。周りからの当たりが強いのは見て取れた。
そんな本来嫁に行けるかも怪しい女が、家の都合とは言え宮本家に迎え入れられたのだ。勘違いもするだろう。ただそれだけなのに愛しているなどと気色が悪い。」
真谷:「随分な言い草だけど、そんな奥さんのためにわざわざこんな寂れた診療所まで足を運ぶのはなぜかな。」
宗一:「言っただろ。死なれたら面倒だからここへ来たまでだ。お前のように世俗から離れた者であれば誰かに漏らすこと
もないだろうからな。」
真谷:「・・・君がそう言うならそれでいいさ。」
宗一:「もういいか?仕事が残っているんだが。」
真谷:「ああ、すまないね。とりあえず、ひと月後にもう一度来てくれ。そこで最終的な答えを聞こう。」
宗一:「・・・ああ、分かった。」
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(回想終了)
久子:「・・・その答えを聞くのが今日だったのですね。
でも、やっぱり私は反対です。」
真谷:「なぜだい?」
久子:「なぜって・・・、そんなの酷いじゃありませんか。なんの意見も聞かれずに記憶を喪ってしまうだなんて・・・。あまりにも可哀そうだわ。」
真谷:「じゃあ久子さんは旦那さんやお子さんが病に罹ってどうすることもできなくなった時、あの薬に縋ろうとは思わないのかい?
死んでいくのを見守るということで良いのかな?」
久子:「それは・・・、」
真谷:「君はなぜそんなにも忘れてしまう側に肩入れするんだろうね。忘れてしまう方がずっと幸せなのに。」
久子:「・・・せめて当人たちで話して決めたらいいではありませんか?」
真谷:「話し合いなんてできないよ。あの子たち、特に宗一君は拗れすぎているからね。
久子さんは不思議に思わなかったのかい?本来、宮本家の足元にも及ばないはずの源田家の娘が、なぜ嫁ぐことになったか。」
久子:「そういったことには疎いものですから・・・。でも、そう聞くと確かに不思議ですね。」
真谷:「宗一君は宮本家の次男ではあるがお妾さんとの子だ。フミさんはフミさんで源田家で散々な扱いを受けてきたらしい。そこから鑑みるに、厄介者同士を婚姻させて追っ払いたかったんだろう。
それだけじゃなくて、宗一君については長男からの嫌がらせにも見えるけど。以前から次男である宗一君の方が賢かったようで妬まれてもいたみたいだし。」
久子:「・・・酷い話ですね。」
真谷:「ああ。そんな中で拗れていったんだろうね。そうでもしなきゃ生きて来れなかったっていうのもあるんだろうけど。あの二人が分かり合うのは難しいよ。」
久子:「そんなの、話してみなければ分からないじゃありませんか。」
真谷:「いずれにしろ、その必要はもうないよ。投薬すれば分かることだもの。忘れていれば本当に愛している証になる。
“忘草植(う)うとだに聞くものならば思ひけりとはしりもしなまし”ってね。」
久子:「突然、なんですか?」
真谷:「伊勢物語の“おのがよよ”っていう話に出てくる和歌だよ。
話自体は簡単でね、仲睦まじい夫婦がいたんだけど、些細なことで女が家をでてしまうんだ。最終的にはお互い新しい恋人ができて疎遠になってお終い。
その中で女が男にこんな和歌を送ったんだ。
『もう二人の関係が終わったから忘れてしまおうと、人を忘れさせる忘れ草の種を心に蒔くことだけは思い通りにならないでほしい』って。要するに忘れないでってね。
それに対して男が返したのがさっきの和歌だ。
『私が忘れ草を植えると聞いたのであれば、忘れられずに苦しむほど、貴女を思っていたと分かってくれるだろうか』って。」
久子:「忘れさせる忘れ草。忘れないでと願う勿忘草。
響きは似ているけど、全く違う花ですね。」
真谷:「ああ・・・。勿忘草なのに忘れ草になってしまうだなんて本当に不思議な話だよ。
とても不思議で、とんでもない皮肉だ。」
久子:「・・・ええ。」
真谷:「投薬は明日から行うつもりだよ。それで十日後に彼とフミさんを対面させて無事、忘れていることを確認できればお終いさ。」
久子:「・・・薬は私がフミちゃんにお持ちしてもよろしいでしょうか?」
真谷:「君が?」
久子:「先生よりも私の方がフミちゃんに信用されているもの。責任をもって飲ませますから。」
真谷:「ああ、分かったよ。なら明日から頼むね。」
久子:「・・・ええ。」
真谷:「ほら、久子さん。中庭を見てごらん。もうそろそろ勿忘草が咲くころだ。
彼はこの花を見てなんて言うんだろうね?」
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(十日後、フミの病室にて)
フミ:「あの・・・、この方は?」
宗一:「・・・。」
真谷:「ああ、この人は僕の知り合いでね、今日はこの診療所を案内していたんだ。患者さんとのやり取りも見学したいって言ってたから連れてきたんだよ。」
フミ:「そうなんですね。
お初にお目にかかります。源田フミと申します。」
宗一:「・・・ああ。」
真谷:「具合の方はどうだい?」
フミ:「まだ本調子ではありませんが以前よりも元気が出てきました。」
真谷:「そうか。それは良かった。」
フミ:「はい、ありがとうございます。」
久子:「先生、そろそろ・・・」
真谷:「ああ、ごめんね。僕たちはこれで失礼しよう。久子さん、後のことは頼むね。」
久子:「ええ・・・。」
真谷:「じゃあ、また後で。」
(病室を後にする真谷と宗一)
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(診察室に戻ってきた宗一と真谷)
宗一:「・・・。」
真谷:「あの様子じゃ大丈夫そうだ。」
宗一:「・・・ああ。」
真谷:「君は大丈夫じゃなさそうだけどね。どうしたんだい?顔色も悪いし、隈も酷い。」
宗一:「別に何かあったわけではない。色々と立て込んでただけだ。」
真谷:「そう・・・。
で、彼女は君のことをすっかり忘れたわけだけど、それでも彼女の愛は勘違いだったと言うつもりなのかな?」
宗一:「・・・。」
真谷:「だんまりか。まあ、君は口ではそう言いつつも分かっていたんだろうけど。
どうして君はそんなにも愛情を忌避するのかな。」
宗一:「そんなもの邪魔なだけだろ。何の意味がある?」
真谷:「・・・はははっ。」
宗一:「・・・なんだ?」
真谷:「いやぁ、君はまだ随分若いが、それにしたって子供じみているなあと思ってね。」
宗一:「お前、何が言いたい・・・?」
真谷:「不思議だなぁってずっと思っていたんだ。
君はフミさんを見捨てることだってできるはずだろう?今回に限っては彼女が病に倒れたという理由がある。源田家に押し付けることだって造作もないはずだ。
でも、君はそうしようとしなかった。なんでそうしなかった?
どんな感情が君をそうさせたんだろうか?
・・・愛でなければ、君のその感情はなんて名前なんだ?」
宗一:「黙れ・・・っ!!」
真谷:「・・・。」
宗一:「さんざん虐げられて、それでも振り落とされぬよう、負けぬようにと必死に生きてきた・・・っ。
最終的に格下の家の女を嫁にあてがわれた私のなにが分かる・・・?」
真谷:「・・・・・・。」
宗一:「母は愛というどうしようもないものに突き動かされて、不幸になると分かりながらも宮本財閥の当主と関係を持った。それで生まれたのがこの私だ・・・!
妾との子どもだから?長男より優秀だから?そんなつまらないことで幼少のころから虐げられてきた私が愛など知る由もないだろう!!その私にどうしろと言うんだ!?
愛など何になる?愛があれば上に立てるのか?・・・そうじゃないだろう?そんなもの必要ない。私は知らないんだ。知りたくもない・・・っ。」
真谷:「・・・・・・君は」
宗一:「・・・すまなかった。私としたことが、少々取り乱した。
・・・最後に、これを。」
真谷:「ん?なんだい・・・?」
宗一:「あいつの今後の処遇についてだ。住む場所としばらくは困らない程度の金を用意した。根回しも終わっている。」
真谷:「・・・なるほど。君のひどい隈はそのせいってわけか。大分無理をしたようだね。」
宗一:「別にどうってことない。仕事のついでだ。
それを私からということを隠して、あんたが用意したことにしてほしい。私はもう二度とあいつと会うことはないだろうからな。
細かいことはここにまとめてある。なにかあれば聞いてくれ。
それと・・・」
真谷:「・・・どうかしたのかい?」
宗一:「他に薬を飲んだ者たちは今はどうしているんだ?」
真谷:「ああ・・・。幸せに暮らしているよ。新しい人と結ばれて家庭を持ったり、ね。
忘れられてしまった側がどうしているかは分からないけど。」
宗一:「・・・そうか。」
真谷:「記憶を喪うことで不幸になることはないんだよ。悲しむことすらできないんだから。
・・・辛いのは忘れ去られた方だ。君みたいにね。」
宗一:「だが・・・、忘れた側は辛くないんだろう?
だったら、それでいい。
・・・世話になったな。」
(出ていく宗一)
真谷:「あの子たちは勿忘草の花が良く似合うなあ・・・。悲しいぐらいに。」
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(二週間後)
宗一:「急に呼び出して何の用なんだ。」
久子:「ああ、宮本様。お久しぶりね。
ごめんなさい。今、先生は手が離せなくて・・・・。終わるまで中庭でも見ていらして。勿忘草の花がちょうど見ごろなの。」
宗一:「・・・私は忙しいんだ。待つことになるのであればまた今度にしてくれ。」
久子:「お疲れのようですし、偶にはゆっくりするのもいいと思うわ。
さあ、どうぞ。」
宗一:「・・・ずいぶんと強引だな。」
久子:「貴方に見てほしいんです。まだ見たことがないのでしょう?勿忘草の花。」
宗一:「・・・一目見たらすぐに帰るからな。」
久子:「ええ、それで充分よ。では、ごゆっくり。」
宗一:「・・・。」
フミ:「あ・・・」
宗一:「どうしてお前がここに・・・」
フミ:「・・・この前、お会いした方ですよね?」
宗一:「あ、ああ・・・。」
フミ:「・・・見てください。綺麗ですよね、勿忘草の花。こんなに咲いているとは思っていませんでした。」
宗一:「・・・。」
フミ:「あの・・・少しだけ、私の話を聞いていただけませんか・・・?」
宗一:「・・・ああ、少しなら。」
フミ:「ありがとうございます。
・・・私、ずっと考えていたことがあるんです。
私が死んだら・・・遺された人はどうなるんだろうって。」
宗一:「遺されたって・・・。」
フミ:「忘れ去られてしまうのはとても怖いことだと思うけれど・・・、でも、もしも私に恋人や夫がいたとしたら忘れてほしいと、そう思ったんです。」
宗一:「・・・なぜ、そう思う?」
フミ:「だって、新しい素敵な人と出会って欲しいんですもの。
私、器量も悪いしのろまだし、良いところなんて無いからきっとたくさんのご迷惑をおかけしていると思うんです。そうしたら、好いてはもらえないでしょう?
そんな私のことなんて覚えているだけ無駄だもの。もっと素敵な人と結ばれて、愛して愛されてほしいと、そう願うはず。
そう思ったら怖くない。むしろ忘れられた方がいいわってそう思えるようになりました。」
宗一:「・・・お前はそれで幸せだと思えるのか?」
フミ:「はい、とても幸せでした。」
宗一:「・・・そうか。」
フミ:「本当に綺麗な花。ずっと見ていたいわ・・・。
『忘れないで』だなんて、そんなお花、愛している人には贈れないけれど。」
宗一:「・・・悪いが、私はもうこれで失礼する。」
フミ:「はい。ありがとうございました。
・・・お気をつけてお帰りください。どうかお元気で。」
宗一:「・・・ああ。」
(中庭を走り去る宗一)
フミ:「・・・さようなら。どうか貴方が愛せる人と出会えますように。」
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(三日後)
(宗一の家の戸を叩く音)
宗一:「おい、誰なんだ・・・?礼儀がなってないな。用事があるのであれば・・・ってお前は・・・」
久子:「宮本様、すぐに診療所にいらしてください・・・。フミちゃんが・・・」
宗一:「おい、何なんだ?私はもうあいつとは無関係なんだが」
久子:「(宗一のセリフに被せるように)フミちゃんが亡くなったの。」
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(診療所にて)
久子:「宮本様お待ちになって・・・っ!!待って・・・っ。」
宗一:「お前!!一体、どういうことだ!?」
真谷:「・・・・・・。」
宗一:「どういうことだと聞いている!!」
真谷:「・・・どういうことだって言われても、久子さんから聞いている通りだと思うけど。」
宗一:「薬を飲めば治ると言ったよな・・・?」
真谷:「ああ、言ったね。」
宗一:「じゃあ、なぜ死んだ!?」
久子:「宮本さま、落ち着いて・・・っ。」
宗一:「落ち着いてなどいられるか!答えろ・・・っ!!」
真谷:「・・・単純な話だよ。あの子は薬を飲んでいなかった。」
宗一:「飲んでいなかった・・・?」
真谷:「・・・久子さん、彼に話してあげて。僕じゃだめだろうから。あと、フミさんから預かっていたものも。」
久子:「ええ・・・。こちらフミちゃんからお預かりしてたものよ。死後、貴方に渡すようにと。」
宗一:「・・・なんだ、この和歌は・・・。」
久子:「フミちゃんはね、知っていたの。はじめからすべてね・・・。」
=============
(回想)
(病室で横になるフミの元へ、薬を手に久子が訪れる)
久子:「フミちゃん、具合はどうかしら・・・?」
フミ:「大丈夫です。ご飯残してしまってごめんなさい・・・。」
久子:「いいのよ。少しでも口に出来たのなら。
・・・フミちゃん。」
フミ:「どうしたんですか・・・?」
久子:「・・・あのね、今日から新しいお薬があるの。少し苦いけれど一日に一度だけだから。」
フミ:「(久子のセリフに被せて)久子さん、私これは飲めません。」
久子:「・・・どうして?
フミちゃん、粉薬苦手だったかしら?だめよ、そんな我儘を言っては。」
フミ:「だって・・・、忘れたくないんだもの。宗一さんのこと。」
久子:「フミちゃん・・・?なんでそのことを・・・?」
フミ:「聞いてしまったんです。先生が宗一さんに説明しているの。
・・・この薬を飲まなければ死んでしまうということも分かっています。でも、それでも私はこの愛を抱えて死んでいきたいんです。」
久子:「フミちゃん・・・。」
フミ:「じゃないと、この愛は本当に消えてしまうでしょう?宗一さんには認めてもらえなかったんだから。
私は宗一さんのことを愛しています。だから覚えていたい。忘れてしまうくらいなら、死ぬことを私は選びます。」
久子:「・・・そう。それがフミちゃんの選択なのね。」
フミ:「はい・・・。だから、その薬は飲めません。」
久子:「・・・。」
フミ:「だめでしょうか・・・?」
久子:「いいえ、そんなことないわ・・・。
だってフミちゃんにも選ぶ権利はあるもの。だから、私はフミちゃんの意思を尊重するわ。」
フミ:「久子さん・・・。」
久子:「じゃあ、片づけちゃうわね。」
フミ:「・・・久子さん」
久子:「なあに?」
フミ:「ありがとうございます。」
久子:「ふふふっ、お礼を言われるようなことじゃないわ。
・・・でも、大丈夫かしら。先生に見つからないようにしないと。」
=============
(病室にて)
(フミとその診察をする真谷)
真谷:「フミさん、検査結果が出たんだけど・・・。君、なにか隠していないかい?」
フミ:「いえ、なにも・・・。」
真谷:「おかしいなあ。じゃあ、どうしてこんなにも悪化しているんだろう?
ねぇ、フミさん。」
フミ:「なんですか・・・?」
真谷:「薬、ちゃんと飲んでる?」
フミ:「はい、飲んでます。」
真谷:「・・・はははっ」
フミ:「先生・・・?」
真谷:「嘘はいけないなあ。」
フミ:「嘘なんて」
真谷:「まさか、飲んでいないとは思わなかったよ・・・。ははっ。まあ、珍しいことに僕が忙しくて、久子さんに任せっきりだったのも悪いんだけどさ。
・・・どうして飲まなかったの?」
フミ:「・・・私、宗一さんのことを忘れるぐらいなら死んだ方がいいと、そう思って・・・。」
真谷:「へえ・・・、そうなんだ。でも、君の旦那さんはこの薬を飲むことを望んでいるんだ。君を助けるためにね。
ほら、口を開けて。」
フミ:「な、なにをするんですか・・・っ!」
真谷:「無理やり流し込むんだよ。暴れないで。体も辛いでしょう?」
フミ:「止めてください・・・っ、」
真谷:「止めないよ。だってこれが正解なんだから。」
フミ:「誰か、た、助けて・・・っ!!」
(病室に走ってきた久子)
久子:「先生・・・っ、なにをしているんですか・・・!?」
真谷:「何って薬を飲ませようとしているんだよ。
久子さんだって知っていたんでしょう?フミさんが薬飲んでないって。はははっ、まさか久子さんに騙されるとはなあ。」
久子:「・・・だって、おかしいではありませんか?
忘れる側にだって、フミちゃんにだって選ぶ権利があると思うんです。」
真谷:「選ぶ権利?忘れるんだから苦しくもないのにどうして飲まないの?愛している人に生きてもらいたいのは当然じゃないか。
間違っていない。僕は医者だ。医者は命を救うものだ。ほら、薬を飲みなさい。」
フミ:「いやっ、やめてください・・・っ。」
久子:「先生・・・っ!」
真谷:「ああ、そうだ。」
久子:「どうして・・・」
真谷:「僕は間違ってなんかない・・・。」
久子:「どうして分かってくれないのよ!!」
真谷:「・・・っ!」
久子:「忘れたら苦しむことさえ出来なくなるのよ!?その苦しみは愛していたからこそなのでしょう・・・っ?でも、忘れたらそれすらも残らないのに・・!」
真谷:「久子さん・・・」
久子:「忘れられてでも命を救いたいというのが貴方の愛だというのであれば、忘れたくないという思いだって愛だわ・・・。それを貴方はどうしてそんなに無下にできるの・・・?」
真谷:「・・・。」
フミ:「(咳き込む)」
久子:「フミちゃん、大丈夫・・・?」
フミ:「は、はい・・・。」
久子:「・・・先生、言葉を荒げてしまい申し訳ありませんでした。後でまた話し合いましょう。」
真谷:「・・・ああ、そうだね。僕も頭を冷やしたほうが良いみたいだ。・・・悪かったね。僕はもう行くよ。」
(病室を出ていく真谷)
久子:「・・・フミちゃん、本当に大丈夫?」
フミ:「はい。久子さんは・・・?」
久子:「なんともないわ。何を言ったかはよく覚えていないんだけど、後でまた先生には謝るわよ。
・・・疲れたでしょう。ほら、横になって。」
フミ:「・・・きっと先生も愛している人を助けたくて、この薬を作ったんでしょうね・・・。」
久子:「・・・ええ、そうね。きっとそうだわ・・・。
・・・・・・おやすみなさい、フミちゃん。」
=============
(十日も過ぎ、宗一と対面してから三日後)
(病室にて)
フミ:「やっぱり悪いです・・・。」
久子:「そんなことないわ。ほら、じっとしていて。久しぶりに宮本様とお会いになるんだもの。せっかくだから可愛くし
ましょうね。」
フミ:「でも・・・、こんな騙し討ちみたいなことをして宗一さんに怒られないでしょうか・・・?
一緒に勿忘草の花を見たいからってこんな・・・。」
久子:「大丈夫よ。だって宮本様はフミちゃんに忘れられたと信じ切っていたもの。先生も協力してくれたし、バレることはないわ。」
フミ:「先生にもお礼、言わないと・・・。」
久子:「うん・・・、可愛く結えたわ。あとはお化粧ね。顔色が悪いのを隠さないと・・・。あと、少し熱が高いから解熱剤飲みましょうね。」
フミ:「・・・久子さん。」
久子:「なあに?」
フミ:「私・・・、宗一さんに私のことを忘れて、宗一さんが愛せるような人と出会って欲しいって、ちゃんと言えるでしょうか・・・?」
久子:「フミちゃん・・・。」
フミ:「・・・宗一さんは愛を嫌っているけど、誰よりも愛を必要としているはずだから、どこかで素敵な人と出会って幸せになってほしいんです。
私は宗一さんを愛せて幸せだったもの。
・・・優しい人なんです。あの人。
優しさを捨てきれない人だから私が死んだら、憐れんで心の片隅に少しだけ置いてしまう気がしてて・・・。
・・・でも、本当は・・・少し後悔もしているんです・・・。」
久子:「・・・フミちゃん?」
フミ:「本当は・・・、本当は私、嫌なんです・・・。宗一さんに忘れられてしまうのも、宗一さんが誰かほかの人を愛し
てしまうのも・・・っ。私・・・、わた、し・・・、本当はずっと・・・ずっとそばにいたかったの・・・っ。死にたくなんかない・・・っ。ぜんぶぜんぶ怖いの・・・っ!!だって、私宗一さんのことを愛しているんだもの・・・っ!!宗一さんのこと忘れるぐらいなら死んだほうがいいって自分でそう思って決めたはずなのに、死が近づくにつれて怖くて、怖くて仕方がないんです・・・私、本当に死ぬんだって。
・・・でも、それでも私、忘れたくないの・・・。宗一さんには忘れて幸せになってほしいの・・・。
意味が分からないでしょう?どうしてこんなにも儘ならないんでしょうね・・・。」
久子:「・・・人はそういうものだもの。
・・・ねえ、フミちゃん。本当にいいのね・・・?」
フミ:「はい・・・。もう決めたことだから。ごめんなさい。突然取り乱したりして・・・。」
久子:「いいのよ。愛しているからこそ、忘れてほしくないと思うんだわ。
勿忘草の花詞だってそうでしょう?」
フミ:「・・・真実の愛?」
久子:「そうよ・・・。フミちゃんは宮本様への愛を、伝えたいように伝えればいいの。
“忘れないで”でも、“忘れてほしい”でも何でもいい。大丈夫よ、私はフミちゃんの愛をちゃんと覚えているから。」
フミ:「・・・だったら、私は宗一さんにこう伝えます。少しだけ嘘を吐いてしまうけど、これが私の愛だもの・・・。
どうか宗一さんが幸せでありますように。愛せる人と出会えますようにと・・・。
どうかどうか、もう今は亡くなったからと優しさで、心の中に勿忘草の種を蒔くことだけはありませんように。」
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フミ:「いまはとて勿忘草のたねをだに人の心にまかせずもがな」
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(回想終了)
(フミの遺体の火葬後、診療所の外で話をする真谷と宗一)
真谷:「あーあ、こんな大金貰っちゃっても良いのかなあ。診療所をもう一つ建ててもお釣りがくるよ。」
宗一:「いっそ建て直したほうがいいんじゃないか。そしたら少しは患者も増えるだろ。」
真谷:「そっか・・・。それはいいかもしれないね。」
宗一:「そんな金使うこともないだろうからな。それに勿忘草の苗もいくつか貰ったし、その分の代金だとでも思ってくれ。」
真谷:「・・・君、これからどうするつもりなんだい?」
宗一:「少し疲れたからな。田舎の山奥にでも引っ込んでゆっくり過ごすつもりだ。」
真谷:「じゃあ、フミさんのお墓はそっちに建てるのかい?」
宗一:「ああ。宮本家も源田家も突然二人そろって失踪したと、もしかしたらちょっとした騒ぎになるかもしれないが、それはそれで面白いから誰にも言わずに行くつもりだ。」
真谷:「そうか・・・。」
宗一:「しかし・・・、人は骨になるとこんなにも軽くなるんだな。」
真谷:「・・・そうだね。
ねえ、僕、君に言ってないことがあってさ。」
宗一:「・・・なんだ?」
真谷:「あの薬は数人しか飲んでいないんだけど、そのうちの一人が僕の婚約者なんだよ。」
宗一:「・・・なに?」
真谷:「僕はね、婚約者の病を治すために薬を開発したんだ。揉めに揉めて、最終的には彼女を騙す形で飲ましてしまった。
僕のことを忘れ去った彼女は今、素敵な旦那さんと可愛い子供に囲まれて幸せそうに暮らしている。
そして、この診療所で看護婦さんとしても働いているんだ」
宗一:「それって・・・」
真谷:「僕は正しいと思って彼女に薬を飲ませた。でも、彼女の意思を尊重するべきだったとずっと後悔していてね。
いや・・・、正直に言えば、幸せそうな彼女を少し恨めしくも思っていた。
それが苦しくて、僕はあの薬を飲ませることが患者のためだと躍起になっていたんだ。
・・・本当に馬鹿だろう?」
宗一:「・・・。」
真谷:「でも、もうお終いだ。あの薬は全て破棄する。もう二度と使うことはない。
もう、久子さんに怒られたくはないしね。
はははっ、話したらすっきりしたよ。」
宗一:「・・・そうか。」
(病院から出てきた久子)
久子:「あ、間に合ったわ・・・。
あら・・・、勿忘草の苗も持っていくの?」
宗一:「たまには花を愛でるのも良いと思ってな。」
久子:「そう・・・。
勿忘草は忘れないでという願いと、真実の愛という意味を持つ花だもの。きっと綺麗に咲くわ。」
宗一:「そうだな・・・。
それでは、私はもう行く。世話になったな。」
真谷:「ああ、気を付けてね。」
久子:「どうかお元気で。」
宗一:「お前たちもな。
それでは・・・。」
(歩を進める宗一)
宗一:「“いまはとて勿忘草のたねをだに人の心にまかせずもがな”・・・か。
本歌取り(ほんかどり)とも言えない歌だな。やはり歌など詠めないんじゃないか・・・。
ははっ・・・お前らしいな。」
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(遠ざかる宗一を見送る真谷と久子)
久子:「・・・行ってしまいましたね。」
真谷:「ああ・・・。
ねえ、久子さん。」
久子:「なんですか?」
真谷:「忘れさせてでも救いたいという独りよがりな願いは愛とは呼べないんだろうか?」
久子:「・・・忘れないでと願うのも、忘れてほしいと願うのも、忘れさせたいと願うのも、どれも愛ゆえにそう願うんだと思いますよ。」
真谷:「・・・そっか。そうだね。
ああ・・・良かった。」
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(時は流れ、数年後)
(診察室にて)
真谷:「石川さん、どうぞー。
ああ、久しぶりだね。診療所が綺麗になりすぎてて分からなかったって?
建て直したんだよ。いい出来でしょう?数年もかかるとは思わなかったけど。
で、今日はどうしたんだい?
ああ、腰ね。はいはい。
え?勿忘草が・・・?
まだ自然には生息していないはずなのに咲いているって?遠方の友人から聞いたんだ。
へえ・・・、それってどこ?
ああ、それはそれは随分田舎だねぇ。はははっ、そうかそうか・・・。
え?何か知っているのかって?
ああ・・・、まあね。
きっとそれは恋文みたいなものだよ。」
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宗一M:「勿忘草。
“私を忘れないで”という願いを、“真実の愛”という意味を持つ花は、小さな墓石を彩るように咲いていた。
ある男の手により植えられた勿忘草は、今日も静かにその花を風に揺らしている。
勿忘草を植えてしまうほど、貴女のことを思っているのだと、かつての歌へこたえを返すように。
“勿忘草植(う)うとだに聞くものならば思ひけりとはしりもしなまし”」
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